うつ病との闘い

(うつ病、他)
春日井 八太郎(仮名)42歳・会社員

私は、京都にて旧家の長男として生まれました。父は仕事人間で、多忙を極め、母は公務員として、全国を出張していました。仕事に追いたてられている両親でした。ゆえに私は、祖母に溺愛され育てられました。子供時代の私は、小さい頃から家の中での一人遊びを好み、内気な性格でした。だんだんと内向的な性格は強くなり、中学校、高校時代は親しい友人も出来ず、人の視線をとても意識し、対人関係に悩みました。ストレスでひどい円形脱毛症にもなりました。
大学卒業後、現在の会社に入社しました。最初は、会社生活になかなかなじめませんでしたが、こつこつと努力を積み重ねた私の仕事ぶりは、いつのまにか認められるようになり、仕事に大きな自信が持てるようになっていきました。係長に昇格した翌年、結婚しました。すべてが順調に回転していた時期でした。しかし、周囲の期待に応えようと、日々全力投球で仕事に没頭し、以降うつ病で倒れるまで、深夜残業、休日出勤が続きました。家庭生活では、妻が近くに住む嫁姑問題が原因で、不安神経症となり、精神科に通院するようになりました。1年間程、妻はひきこもり状態になりました。悪いことは重なるもので、不況から会社の業績は急激に悪化してきました。仕事は更に激しさを増し、職場は戦場と化し、それと妻の看病、家事。私はフラフラの兵士でした。この頃、自分の精神状態がおかしいことに気づき、妻の病気の関係上、多少知識がありましたので、これは、うつ病だと思い、迷わず精神科に行きました。結果はやはりうつ病でした。医師からはしばらく会社を休むように勧められましたが、会社は、長期の休みを言い出す雰囲気ではありませんでした。また人事異動で上司が変わり、その上司との人間関係にも悩み、自分はだんだんと追い詰められていきました。ついに会社の事務所で倒れ、以降数ヶ月間会社を休み、また嫁姑との更なる関係悪化から、妻が突然、家を出て行き別居生活にはいりました。私がうつ病ではなかったら、妻と母親との間に入り別居、そして離婚という事態には至らなかったかもしれません。

復職後は、長年いた会社の中枢部門から、左遷されました。その一年後、私の会社は、親会社に吸収合併されました。吸収合併された元子会社の社員ですから、私が中枢部門に復帰する可能性はもうないと、大きなショックを受けました。生まれてから今まで「上昇志向」が、私の大きな価値観でした。それが根底から崩れ去ったのです。うつ病との闘い、そして生きがいの喪失。これから何を支えに生きていけばよいかわらなくなりました。

そのような時に出会ったのが、精神科医に勧められた森田療法と生活の発見会でした。生活の発見会(神経症の自助グループ)の集談会(会合)への初参加は、感動的でした。ここには、私の悩みを親身になって、耳を傾けてくれる人達がいる。私の苦しみ、悩みを解決に導いてくれそうだと、大きな出会いのようなものを感じました。しかしながら、うつ病の症状は辛く、孤独な日々でした。もう肉体的にも精神的にもエネルギーが、ゼロに近い状態でした。毎日、会社に行くことだけで、私は精一杯でした。頭は朦朧とし、体は、うつ病特有のあのいやなだるさ、疲労感に悩まされました。何をする意欲も失いました。自分はもうだめになってしまった。このまま一生この状態が続くのかと絶望的でした。復職後配属された部署は、今までとは全然違う、私にとっては畑違いのところでしたので、おぼえることは一杯ありましたが、何一つ習得出来ないまま日々が過ぎていくだけでした。うつ病前エリートコースを歩んでいた自分は、もはや見る影もなく、後輩の女子社員からも「いいかげん早く仕事をおぼえてください。」と叱責をあびる始末でした。この頃、今では信じられないことですが、電話を出るのも怖くて受話器を取ることも出来ませんでした。また、うつ病という病気に対し、まだまだ非常に理解が少なく、その偏見にも苦しみました。毎日が地獄のような日々でした。唯一心が安らぐのが、帰宅後、森田関係の本を読むことでした。この時間だけが、地獄から抜け出られる時間でした。つらく、苦しい日々でもなんとか会社勤めをやっていけたのは、その当時は意識してはいませんでしたが、『自然に服従し、境遇に従順なれ』という森田先生の言葉をいつのまにか体得していたからのように思います。自分は、病気で一人前の仕事が出来ない、だから人から一人前扱いされないのは、しかたのないことだ。自分が今弱いならば、その弱さに徹しようとしていたからかも知れません。

入会一年後に、生活の発見会の基準型学習会に参加し、翌年、学習会の世話役チーフを担当させていただきました。その期間中の6月中旬のある日の朝でした。自分の力だけで、自然に朝7時に目が覚めたのです。朝7時起床というのは、うつ病になる前に、私が起床する時間でした。驚き、感動しました。約3年ぶりの出来事です。それまでは、恥ずかしながら、自分の力では起きられず、近所に住む母親に起こしてもらって、なんとか会社の始業時間に間に合うという具合でした。その日から規則正しい生活が出来るようになりました。世話役チーフになり、受講生の皆さんのお世話をさしていただいたことが、私のうつ病が好転するきっかけになったことは、まちがいありません。学習会には、様々な切実な悩みをもった受講生がきています。その一人一人の悩みを考え、なんとか少しでもお役に立ちたいと日々考えるようになりました。そうすると当然ながら、自分の症状、悩み、苦しみにばかり毎日とらわれていた自分から、他者に自分の意識が、大きく向けられるようになったのです。

今、私のうつ病は好転しています。しかしながら、いつ再発するかもしれませんし、発病前の「自分の生き方、物の考え方、心のくせ」に戻れば、再発するのは確実でしょう。私が今こうして元気になれたのは、もちろんうつ病である私にとっては、薬物療法が大きく寄与したことは、言うまでもありませんが、森田正馬という唯一日本人が確立した精神療法、森田療法の力がなければ、長く何年も続いた私のうつ病は好転することはなかったことでしょう。また、森田療法を学んだおかげで、私の神経質的な性格は影を潜め、柔軟性のある性格にもなりました。他人に対して構えることがなくなり、人間関係もスムーズになり、悩まなくなりました。

森田療法の学習の中から、私のうつ病を好転に導き、そして今再発しないように、私が日々心がけていることをお話ししたいかと思います。日常生活においては、五つあります。1.規則正しい生活をすること。2.一日の疲れは、その日にとること。3.無理をしないこと。4.夢中になれるいい趣味を持つこと。5.自分の力で、出来ることと出来ないことを明確に区別し、どうにも出来ないことは思い悩まないこと。以上です。そして、生き方の信条として、大きな柱が三つあります。「今を生きる、人の為に尽くす、感謝をして生きる」です。

まず一つめの「今を生きる」ですが、森田先生が、しばしば引用されている達磨大師のことば、『前を謀らず後ろを慮らず』という言葉がありますが、これは「今を生きる」ということです。人間死ぬまで、当たり前のことですが、自分の思い通りには生きられません。この当たり前のことを私は傲慢にも自分だけは、自分の描いた理想通りに生きたい、一生懸命に努力さえすれば、それは可能だと考えておりました。たった一度の自分の人生だから、必ず私は自分の夢を手に入れたいと願望していました。言葉を変えれば、完全主義の人生を歩みたいと願っておりました。なんて私は馬鹿なことを考えていたのでしょう。そのために自分の理想ばかりに、とらわれ、もがき苦しんできたのです。将来なんて誰にもわかりませんし、何が起こるかなんて予想出来ません。自分の理想の将来なんてことを考えてばかりいたら、おかしくなるのは当然です。それよりも今、自分のできることに着実に取り組み、また完全主義にとらわれず、70%主義で生きることを心がけております。

次に、「人の為に尽くす」ということですが、そんなに大げさなことはしなくていいのです。人に親切にするのです。人に優しく接するのです。そしたら、相手は喜んでくれるかもしれません。素敵な笑顔に出会えるかもしれません。「人に尽くす」という言葉は、自己犠牲的なイメージを持たれる方がおられるかも知れませんが、「どうしたら他人に喜んでもらえるかなぁ」と考えることは、だんだんとても楽しいことになっていきます。そして何よりも私達神経質者にとって、「自分のことばかり考えている」という呪縛から逃れられるのです。自分のことばかり考えていたら、それはもういろんなことが、心配になってきて悩ませられるのは、当然です。「どうしたら他人に喜んでもらえるかなぁ」と考えることは、自己中心性を少なくし、人間関係もうまくスムーズに流れるように思います。他人に喜んでもらうということが、自分にとって最高の喜びだと感じるようになれば、こんな幸せことはありません。

最後に、「感謝をして生きる」ですが、自分は、いろいろな人のお世話の上で、生かされているということをうつ病という苦しい病を経験し、体得を少し出来たように思います。少しの体得ではありますが、このことは大きかったです。これは、うつ病で苦しんだ私の大きな収穫だと思います。感謝する心を抱くことによって、得られる最大の利点は、肥大した己の欲望を軽減することだと私は思います。

長期にわたるうつ病は、薬物療法だけでは限界があるというのが私の実感です。その人の心のくせ、物の考え方、生き方の修正が不可欠なように思います。