普通神経症の部屋

人前で手が震える書痙の悩みは最近多いようです。以前、お葬式のご焼香で手が震えて以来人前で書くとき、会食するとき、お茶を飲むときに手が震えて悩んでいる方の相談に乗りました。その経験を紹介しましょう。その方も手が震えたらどうしよう(予期不安)といつも悩み、いつもそちらに注意が向いてしまいます(注意の狭窄、それしか考えられない状態)。これさえなければと思うほどに不安は募ります。このような視野狭窄状態にあることが自分でだんだん理解されてきました。そしてあるとき、結局震えても目の前のことをやるしかない、ここはひとつ恥をかいてみようという気になって会食に臨みました。結果は少々震えましたが、久しぶりに楽しく会食を終わりました。人はそれほど気にしていないのですね、というのがその後の彼女の印象でした。

私たちの最も普遍的な悩みの一つが眠れないことです。私たちは眠れぬ夜を悶々として過ごし、次第にそれがひどくなると夜が恐くなるのです。しかし眠れぬ人の多くは、起きている時にさまざまな悩みがあります。眠れるという悩みは私たちが起きている時の行き詰まりを象徴的に示しています。眠れないと恐怖すればするほど眠れなくなります。不安になるまいと思えば思うほど、不安になります。ここに不安の逆説があります。もう一度昼間の生活がどうなのか、眠れぬ人は考えることが不眠恐怖の最大の解決法なのです。

さまざまな体の症状や昼夜逆転で悩んでいる人にとって症状はつらく苦しいものですが、まず己を知ることが大切です。よくよく自分を観察すると、そこに自分の生き方が反映されているものです。これさえなくなればと思い、その症状を取ろうとすればするほど苦しみはつのります。これは一般に完全主義的生き方です。白か黒か、無か全か、という対立的生き方です。症状と付き合いながら、ボチボチ感覚でいけるとよいのですが。

慢性の不眠と疲労感や手の震えといった悩みは、自覚しているご本人にはとてもつらいことです。しかしこのつらい体験の中には、自分で自分のつらさを強めているメカニズムがありそうです。それが「とらわれ」です。早く症状を取りたい、例えばきちんと眠りたい、疲れを取りたい、手を震えなくしたいなどの欲求が、症状への注意を強め、それが症状を強く感じさせます。まず、一歩距離を置いて、自己観察することを薦めます。そこからどの程度この自分で自分の症状を作り出しているかが理解できれば、解決の出口に立ったことになります。

多くの人が手の震える恐怖で悩んでいます。食事中や仕事中に人に見られていると思うと手が震えてしまいます。おそらく「震えまい」と思えば思うほど手が震え、注意がそれに引きつけられ、それがまた手の震えを強めます。悪循環です。同じような状況になったらどうしようとさらに不安がつのります。予期恐怖です。まずは自分の陥っている悪循環に気づくこと、震えるものと覚悟を決めてその場その場のやるべきことに手を出していくこと、震えを取り除くための人生から、震えを持ちながらも自分のしたいことを探していく人生に価値を転換することが肝要です。

職場の異動にも悩みはつきものです。昇進ともなれば周囲の期待もひしひしと感じ、それだけでプレッシャ−になるものです。特に責任感が強い完全主義者にとっては、失敗してはいけないと苦しくなってしまいます。 症状がひどい場合には専門家の受診をすすめます。また、何でも完全にやろうとするとつらくなるので、最初はまず勉強、わからないことは周りの人に助言を求め、ぼちぼちとできることから手を出していくことをすすめます。森田療法の勉強も役に立つでしょう。

仕事がいやで悩んでいる人へ
いやだいやだと思えば思うほど、つらさは募ります。心は悩みだけしか見えず、閉じられてしまいます。外を観察すると興味あることがいやな職場でも意外にあるかもしれませんし、相談できる上司や同僚がいるかもしれません。
仕事にストレスはつきもの。問題はそのいやなストレスをいかに取り除くかではなく、それを自分の中でいかに昇華(消化という言葉でもよいと思いますが)するかということです。

われわれの悩みは、欲望から生じ、そしてわれわれが生きるということは、その欲望を生かすことであり、そこで生じる悩みを引き受けることである。われわれの人生とは、そのようなものであると思い定めれば、もっと素直に自分の欲望を感じ取れるかもしれないと私は思いました。

“あるがまま”について私の感想を述べたいと思います。ありのままに現実と自分を認めていくことがいかに困難なことか、皆さんよくご承知のことと思います。自分の欠点については、ありのままにどころか、その十倍にも見て取り、自分のやったことについてはありのままではなく、過小評価していまうわけです。逆に自分の弱さをそのまま受け入れることが私たちは一般に困難です。ではどうしたらあるがままに現実を、自分を、自分の感情を認めていけるか、あるがままたらしめるにはどうしたらよいのか?自分の感性、自分の感じ方を大切にすること、恐怖の背後の健康な欲望を見つけていくこと、それを発揮すること、恐怖、不安をとりあえず捨てておけることだと思います。われわれが生きていくこと自体がある種の苦を生じるとするならば、それをとりあえず捨て置き、自分の欲望を発揮することだと思います。

体に関する悩みは、一般的に自己臭恐怖あるいは広い意味での対人恐怖と分類されます。または体へのとらわれつまり普通神経質とも近い関係にあります。実際には、その悩みが単純なものではなく、苦手な状況→体の不調→人に知られる恥ずかしさ、というつながりを持っているようです。そこには人には自分の弱さを知られたくない、という負けず嫌いがこころがあるかもしれません。まずは自分はそのように反応してしまうからだと心があるのだ、と認められればよいと思います。「腹の具合が緊張すると悪くなってね」と頭をかきながらいえれば、世界が変わるかもしれません。

ヒポコンドリ−について考えてみました。われわれはちょっとしたことから体の調子、健康および病への恐れなどにとらわれるのです。これは古代からしられた悩みでヒポコンドリ−(心気症)と呼ばれていました。私たちは生・病・老・死などの苦を持ちながら生きていくわけですが、その代表的なものが心気症つまり普通神経質というわけです。生きることに必然的に伴う苦悩ですので、われわれはそれとどう付き合うか、どう折り合いをつけるか、悪戦苦闘します。例えば眠れないことは、次の日がどうなるのだろうか、自分の健康状態は、早く寝なくては仕事が出来ないなどと悩み、悩めば悩むほど眠れなくなります。そのように苦悩しながら、その日その日をそれなりに生きていくこと、それが生きることとではないでしょうか。

人の悩みにはさまざまな次元がありますので、一概には言えませんが、一般的には神経症的不安、恐怖に対する治療として、薬物療法、カウンセリング(あるいは精神療法)そして自助努力という3つの柱が挙げられます。そして最初の2つはいずれは必要がなくなりますが、自助努力はわれわれが生きていく上でもっとも重要なことになります。それに心の体験フォ−ラムが役に立つと思います。また、社会恐怖と呼ばれるものは人前での行動についての不安を主とするもので、いわゆる対人恐怖と少し悩みの焦点が異なります。しかし森田療法を学ぶことが大いに助けになると思います。