普通神経症の部屋

Jさんは頭重感や肩こりに、またsunsetさんは疲労感に悩まれているようです。こうした身体の不調は辛いものですし、健康に過ごしたいと願う気持ちは自然なことですから、思うようにならない体調に悶々としてしまうのは良くわかります。こうした時の対処法として、これまでにも規則正しい生活や身体を動かすことなどがやり取りされているようですね。行動の転換が気分の転換に繋がるという意味でまさに森田的と言える方法ですし、実際それが転換の機会になることは多いものです。ただそこでちょっと注意をした方が良いのは、どこまで頑張るか・・・という加減でしょう。

身体の症状の場合、どうしても「なぜそうなるのか?」と原因を探ろうとしてしまったり、毎日体調をチェックして一喜一憂してしまいがちです。そこで、こうした“とらわれ”から脱出しよう!と考え、動いてみる姿勢は良いのですが、思うように行動できないと自分を責めてしまったり、「行動しても何も変わらない・・・」と落胆してしまう。あるいは、体調にとらわれていてはいけないと自分の身体に鞭打って、無理に行動をした結果、かえって負担が大きくなってしまうこともあるでしょう。そして、悪化した体調に落ち込み、「なぜ・・・」「こんなことも出来ないなんて・・・」などと考え、ますますとらわれてしまうというわけです。

では、動きがさらなる“とらわれ”に繋がらないようにするにはどうしたらいいのでしょう? 勿論、行動に踏み込むことや身体を動かすことが悪いわけではないのです。ただ、「何のために」「どんな風に」「どこまで」行うのか・・・・そこがポイントです。言い換えれば、行動の目的が症状を取ることになってやしないか?また、行動することが新たな「かくあるべし」になってはいないか?と、振り返る必要があるということです。

「何とかしたい」と思うのは自然な心ですから、なかなか難しいのですが、「行動してみる」「動いてみる」という先に、症状の緩和という見返りを求めてしまうと、常に注意は身体の状態に固定してしまいます。また今の体調では到底無理なことまで頑張ろうとしてしまうのも、治すために・・・という気負いの結果でしょう。

「今は万全な自分ではないけれど、しかしそのまま何もしないのも勿体ないし・・・」というくらいの気持ちで、「とりあえず」動き出してみることです。その際には、繰り返し言われていることですが、ちょっとやってみたいなと思うことから、あるいは最低限やらないといけないことから始めてみて、力加減も今持っている力の6割程度でやってみましょう。また一気にやろうとせずに、小目標に分けて「ぼちぼち」とです。冬場の車のエンジンをイメージして、急がず慌てず、時間をかけてエンジンが温まるのを待つつもりで。合間の休養も勿論大切です。じれったいと思うでしょうが、そんな風に力を抜いて取り組んでみた時に、おのずと自然な身の動きや、ささやかな喜びに気付くことが出来るのです。 こうした姿勢で取り組んでみても、やはり疲労感や頭重感などが強い場合にはうつ症状が背景にあることも考えられます。無理に自分ひとりで頑張ろうとせず、専門医に相談をしてみてください。
(久保田 幹子)

nobさんは書きました。
「11月になって過敏性膀胱と不安感が出る日が多くなりました。・・・散歩とか運動もサボリがちになりました。仕事は休んでいません。皆さんは辛いときはどうやって乗り切っていますか?」それに対してKさんは「運動ストレッチ森林浴で自然にふれ、からだを動かして、こっているところをのばしていると、自然に気持ちが前向きに変わっていくことが多い」という体験的なアドバイスを寄せられました。それからお二人のやり取りが続くうち、時を隔てずnobさんから「無理にでも運動しているうちに回復した」という朗報が届きました。もしかするとnobさんは最初に書き込みをされた時点で既に、これまでの生活の形が崩れたところ=散歩や運動から再開することがポイントだと気づかれたのかも知れませんね。
nobさんやKさんの実体験が物語っているように、運動には大きな効用があります。かくいう私も、時々入院患者さんと治療スタッフとのスポーツ行事に参加しています。行事の前はいつも心浮き立っているというわけにはいきません。たいていは「疲れて身体がしんどいな」「50歳過ぎたわが身では、若い人達の動きについていけないな」「怪我でもしたらえらいことになるぞ」といった懸念を心に抱きながら足取り重く体育館に向かいます。準備体操で身体の硬さを痛感するうちに一層心配がつのってきます。しかしいざバレーボールやバトミントン、ドッチボールなどが始まると、生来の負けず嫌いもあってつい夢中になってしまうのです。「軽やかな身のこなし」というには遠く及ばず、患者さんたちの失笑を買いながら、こけつまろびつ必死に球を追いかけます。それでも終わってみると実にすがすがしい。心身ともほぐれて少しだけ若返ったような気さえするのです(筋肉痛が翌々日になってから出るのは困りものですが)。考えてみれば、運動を始めるまでは不安な気分でわが身を外から眺めているのですが、運動の最中には自然に「身体=動きそのもの」になり、身体に注意を向ける代わりにひたすら他の人やボールの動きに注意を集中しているわけです。
作業に没頭した状態とも共通していますね。その刹那は不安や懸念から自然に抜け出ているともいえます。もちろん球技に限らずウォーキング、ジョギング、サイクリングなど一人でできる運動でも構いません(たしかmaさんは自転車の名手だったような・・・)。またゆっくりと風景に目を配りながら散歩することでもいいのです。無茶をするのでなく身体へのやさしさを忘れずに活動すればいいのですから。
nobさんやKさんのように日ごろから運動している方なら、もっと身軽にやりなれた運動に入っていけるはずです。不安や症状が出現したときは・・・心をやりくりするかわりに生活の形を整え、思い切って身を動かしていくことが大切ですね。
(中村 敬)

Sさん。はじめまして。「鬱」からの復職をはたされたのこと。良かったですね。復職への道のりは決して平坦ではなかったものと推察します。現在は、復職される中で、様々な不安な気持ちが生じられているようですね。ここからは、Sさんのおっしゃっている「鬱」が「うつ病」のことなのかどうかわかりませんが、これを「うつ病」と理解させていただきお話をさせていただきたいと思います。うつ病の治療の基本原則は「服薬」および「休息」です。また、うつ病の症状が改善してからも、服薬の継続が再発予防に望ましいと考えられていますので、主治医の先生とご相談をしながら治療を根気強く続けていただければと思います。うつ病の養生および復職にあたっては、「頑張りすぎないこと」が非常に大事であると言われます。なぜなら、うつ病になりやすい方は、非常に頑張る方が多いのです。頑張ることは非常に良いことなのですが、頑張りすぎはオーバーワークとなり、心身の不調をきたすことが多いのです。何事も「過ぎたるは及ばざるが如し」と言えましょう。復職して間もないとすれば、なおさら目標設定はより緩やかにして、少し物足りないぐらいの状況で会社に少しずつ慣れていくことが肝要かと思われます。また、一人で抱え込まずに周囲の人(職場の同僚、上司、会社の保健師、ご家族、主治医)に相談をしながら、共に復職を果たしていくという姿勢も大事かもしれません。「頑張りすぎないこと」を念頭に、あせらず、ゆ?くりと目前のことを1つ1つ取り組んでいきましょう。
(川上 正憲)

Orさんが書痙で悩んでいるとのことです。
しかし自分ひとりの時にはさほどふるえないのに、人前で書くときに特に症状が現れるという特徴を見ると、正確には書痙恐怖というべきでしょう。Orさんはお客様先で領収書を書くときに初めて症状が出たということです。こういう点からも、身体の疾患ではなく精神的条件から起こるものであり、森田正馬先生が神経症の一症状であるとしたとおり、森田療法によって改善できるものです。

書痙恐怖に悩む本人は、人前で震えたりすることを自覚するとそれが非常な醜態であると感じがちです。最初は皆さん震えを止めようと思ったり、またOrさんのように硬筆の勉強をするといった努力をされますが、逆にとらわれてしまい症状はかえって増強するのです。さらに予期恐怖を抱くようになると、次の機会に直面する前に既に緊張が強くなり、震えまいと努めてますます緊張する結果、震えは一層増大していくのです。こうした震えないようにする努力が報われないことを知り、ようやく病院に行ったり森田療法に出会う方が多いようです。

書痙恐怖のような対人緊張症状の背後には、「人によく思われたい」欲求や強い克己の姿勢があります。Orさんも「跡継ぎとして頑張ろうと考えていた」とあります。そこで、震えない努力をやめ、過度に周囲を意識するのではなく、一つ一つ目の前のことに取り組んで仕事に力を注いでみて下さい。高良先生は「震えさせないためにいろんな手段を試みることは無益である。誰にでもわかりやすい字を書くようにするとよい。」と書かれています。震えても分かるような字を書くことができればしめたものです。そうすれば症状と上手く付き合っていかれるようになるでしょう。これからも頑張ってください。
(矢野 勝治)

oaさん、過敏性膀胱炎と頻尿感のような症状に悩んでおられるとのこ とですね。常に症状に対する不安感があり、仕事や毎日の生活にストレスを感 じているとのこと、大変おつらいことと思います。検査で異常がなく精神的な もの、といわれればなおさらですね。
症状と同時に、孤独感も感じておられるのでしょう。本当にお疲れ様です。
ただ、そのなかでジョギングやゴルフをしたり、症状に囚われない努力をな さっている、これは非常に素晴らしいことだと思います。症状や不安にとらわ れがちになるなかで、そのような努力はなかなか出来るものではありません。どうしてそのようなことが出来ているのですか?oaさんは自分の状態に 立ち向かう勇気があるかたなのだな、と思わずにはおられません。その努力は 是非続けていただきたいと思います。
さて、自分の症状は「もっと重い症状に悩んでいる方」に比べると「たいし たことない」と思いながらも、「なかなか受け入れることができない」とのこ とですね。自分の症状を「たいしたことない」と考え、受け入れようとする態 度からは、症状を克服しようとする気持ちがうかがわれます。oaさんは 負けず嫌いで、向上心も大いにあるかたのように思われます。これもとても大 切なことだと思います。
Oaさん、いくら精神的なことといわれても、症状を「なかなか受け入 れることができない」のは当たり前です。それでいいのです。「受け入れるこ とができない」感情を受け入れてあげてください。症状にこだわることもひと つのとらわれであり、受け入れようとこだわることもまたひとつのとらわれな のです。とらわれから抜け出すためには、自分の気持ちがどのようなものであ っても、あるがままに認めて大切にすることです。大切にすることとそれに振 り回されることとは違います。症状を受け入れられない自分を責めずに、正直 に認めた上で、目的本位の行動を続けてください。一番大切なことは、症状を 受け入れたかどうかではなく、目的本位の行動が本当に出来ているかどうかなのです。
症状に囚われない努力を続けている、意志と向上心が強いoaさんなら 出来ると思います。Oaさん、いまのお気持ちでいいのです。
(鹿島 直之)

Hoさん、こんにちは。4月から新しく細菌検査業務担当になり、緊張して手が震えることに悩んでいらっしゃるのですね。
新しい業務で、かつ細かい作業という状況を考えれば、緊張することはごく自然なことと思いますが、手が震えるくらいの緊張ですから、Hoさんにとっては、さぞかし、辛いのではないかと思います。
しかし、その一方でHoさんは、前勤務地での採血業務の際に、当初は非常に緊張し手が震えてしまったものの、業務をきちんと遂行する過程で手の震えが自然に軽快するという経験もされています。このことは、Hoさんが、緊張しながらでも、日々の 業務に打ち込み、仕事という本来の目的を見失わなかったからにほかなりません。このことは、森田療法でいうところの目的本位の姿勢であるといってもよいでしょう。つまり、この姿勢こそが、仕事に対する自信を与え、結果として緊張する機会を少なくさせていったことになるのだと思います。
そう考えると、今回の業務においても、同様な姿勢で臨むことがHoさんにとって、とても大切であると考えます。その際、二つの点を意識しながら、日々の業務に臨んでみてはどうでしょうか?まず、一つ目は、辛い状況の時ほど、焦らないことです。 誰しも、辛い状況であれば、早くこの局面を打開したいと焦るものです。しかし、焦れば焦るほど、結果として緊張感を取り除くことに注意が奪われ、仕事本来の目的から余計に遠のいていってしまうように思います。そのため、まずは仕事に熟知することを目標に据え、そこに時 間を割いていくように努めていくようにしていきましょう。
そして、二つ目は、人を味方につけることです。是非、ご家族に辛い胸の内をお話されてみてはどうでしょうか?話すことで、ご家族から思わぬ助言がでることだってあるでしょうし、安心感を得ることだってあるでしょう。
このことが、もしかしたらHoさんの緊張感を少しでも軽くしてくれるかもしれません。時間と人は大いなる見方です。勇気は必要であっても、必ずやHoさんに新たな経験と自信を与えてくれることと思います。是非頑張ってくださいね。
(樋之口 潤一郎)

sさんは、人のいるところでのお腹がなる音が気になり、つらい思いをしているとのこと。そのsさんの真剣な書き込みとそれに対するmiさん、daさんの「私も同じような悩みを持っていたけれどこう乗り越えてきたよ」というメッセージ、maさんからのアドバイスを感銘を受けながら読ませていただきました。こうしたやりとりはフォーラムならではのものと思いました。以前だったら「どこで悩みを話したらいいかわからない。」「こんな悩みをもっているのは自分だけではないか」と思い、ひとりでつらい気持ちで日々を送ることになっていたのではないでしょうか。もちろん不安を抱えて一歩踏み出すのは自分自身ですが「つらさをわかってくれて、その上で背中を押してくれる」ひとたちの存在は大きな励みになると思います。
もしも掲示板を読んではいるけれど、自分の悩みを書き込むことを迷っている人がいたら、思い切って書き込んでみてもいいかもしれません。「自分だけではない」と思えるかもしれませんよ。
さて、sさんは応援してもらって嬉しい一方で、「『克服できた』という意見と『症状はありながらも』という意見を見て、自分は完全に症状から開放されたいと思っているのにどういう結果になるのだろうか、本当に前向きに生きていけるのだろうかという疑問 が浮かびました」と書いています。とても正直なお気持ちだろうと思います。この疑問は離人症状に悩みながら3年間行動してきたbさんの「本当に完治するのか不安」という疑問とも一部重なるかと思います。
この疑問について考えるために、もう一度「どうして症状をなくしたいのか」に立ち戻ってみるのはどうでしょうか。
それは「症状をなくして自分の人生を楽しみたいから」でしたよね。そういうときまず症状をなくして、それからでないとやりたいことをやれないと考えてしまいがちです。しかし症状はなくそうとするとますますとらわれて、身動きがとれなくなってしまいます。そこでまずはとらわれの悪循環から離れ「症状を持ちながら」やりたいこと、やるべきことに臨んでいくわけです。そうしていくうちに「今日は症状がどうだったか」よりも「今日何をしたか」が大事になってきます。そして症状があるなしが問題でなくなるとき、それが「克服」につながるのではないでしょうか。こうしてみると「克服した」と「症状をもちながら」には、大きな違いはないのかもしれませんね。sさんは夏に楽しみなお芝居を控えて不安が大きくなっているとのこと。強い不安の裏には強い「こうしたい」があるようですね。当日はおっかなびっくり席に座って、顔を上げてみてください。大好きな役者さんと目が合っちゃうなんていうことも起こるかもしれませんよ。
(塩路 理恵子)

20年近く身体の症状に悩まされさぞかし辛いかと思います。そんな中、ご自身が子供の手術の前をはじめとした様々なストレスが重なると頭痛、嘔吐、下痢が出現されるとのことですね。森田療法の理論からすれば、このような身体症状を取り除こうとすればするほどますます身体症状へ「とらわれる」ことはあります。a様はこの「とらわれ」についてもご理解されていらっしゃいますね。後は、ha様が色々「頑張りすぎて」色々なことを重ねてこなしすぎていることはありませんか?だとすれば、頭痛、嘔吐、下痢はha様があまり無理しないようにという身体の「サイン(兆候)」かもしれません。ha様がやらなければならぬことも多いと思いますが、ちょっとまわりの人へお願いできることや、重なったことがらの中で優先順位をつけて後へまわしたりすることが、結果として頭痛、嘔吐、下痢などを減らすことになるかもしれません。身体症状が強いときこそ、ご自身の生活スタイルについて振り返ってみましょう。
(舘野歩)

ikaさんの「やってしまいました」に象徴されるように、突然会議でふられてしどろもどろになる、というのはバツが悪いものですね。予想外の出来事に動揺する自分は確かに何となく情けないし、後味が悪いものです。でも、こうした出来事は神経症に特有のものでしょうか?ikaさんは「どこまでこのトンネルが続くのでしょう」と嘆いていらっしゃいますが、それはどんな事態になっても動揺しない、人前であがらない自分をゴールにしているからこそ、続くトンネルなのかもしれません。どんな事態に直面しても動揺しないとしたら、まるでロボットのようですね。私もmaさんが紹介した森田の喩えが真っ先に頭に浮かびました。「あがり性」だと表明することは、弱みを見せるように感じるかもしれませんが、結局それは隠すに値しない自然な反応ということです。そしてそれは伝える相手もこれまでに必ず体験していることなのです。だからこそ、伝えても「わかる、わかる」と受け入れてもらえるわけです。ikaさんも、もし同僚が会議でいきなり報告をさせられてドギマギしている様子を見たら、きっと親近感を覚えると思いますよ。普段は明るい人間だと思われているから、そうでない一面を見せると意外に思われそうでつらい、ということですが、「意外」と思っているのは自分であって、案外他人は「当然の反応」と思っているかもしれません。
森田を学習しているからには、「出来て当然」とか、バツが悪いことも「バツが悪いと感じているうちはまだまだ・・」などと考えてしまいがちですが、森田を学習してもバツが悪いことをバツが悪いと感じること自体は変わらないのです。要は、それをあってはいけないことと考えるか、それも致し方ないと受け取るかの違いでしょう。そう考えると、ikaさんの「前回、恥をかいたから、またかいたらそれでもいいや」と開き直ったらさほどあがらなかった、という体験はとても貴重ですし、森田を学習したからこそ出来たことと言えるでしょう。この体験こそ、トンネルの出口に近づくヒントになります。「いやあ、突然でドギマギしたよ」とあっさり言ってしまった方が、周囲からは堂々として見えるかもしれませんよ。
(久保田 幹子)

ikaさんは書きました。神経症や精神的に弱くなっている人には「がんばれ」という言葉はプレッシャーになり使うべきではないと思うのですが、と。それに対してmaさんは、あまりしんどそうな方には使わないけれど、背中を少し押してほしいなと思われている方には、優しく頑張ってくださいねと語ることもあります、と返答されています。またAさんは、つらいながらも行動しているとき、「頑張っていますね」といってもらったら嬉しく感じるという例をあげ、「頑張れ」は相手の様子や性格などを見ながら臨機応変に使えばいいと述べています。
maさんに紹介していただいたように、私は『「うつ」はがんばらないで治す』という本を書きました。一般にうつ病のひとは、頑張らなくてはと思い、必死に頑張ってはいるものの、行動に向かうエネルギーが湧かず身体がついていかない状態にあります。それだけに他の人からの「(もっと)頑張れ」という励ましは、本人には「頑張りが足りない」と批判されているように感じられ、無力感を強めてしまうことになるのです。うつ病の人々の否定的な自己イメージが、そのような受け止め方に輪をかけることになります。こうした理由から、うつ病の人に「頑張れ」は禁句ということが知られるようになってきました。
ただし例外的にうつ病の人に対して治療者が「頑張れ」と励ますことがないではありません。結局ma さんやAさんのいうように、臨機応変に使えばいいということが正論だと思います。ただし臨機応変にその言葉を用いるには、相手の心理状態を感じ取る力や状況を適切に判断する力が必要ですから、上級編の技になるでしょう。それに対してAさんがいみじくも述べたように、「頑張っていますね」という言葉は、「(もっと)頑張って」というようなプレッシャーを与えず、相手をそのまま肯定するニュアンスになりますから、より安心して用いることができるのではないでしょうか。「頑張っていますね」という言葉は、相手の行動を認め励ます場合でも、あるいはうつ病の人に「これだけ頑張ってきたのだから、少し休んでもいいのですよ」というメッセージを伝える際にも有効だと思います。
(中村 敬)

maさん。長年うつ状態に困ってらっしゃる方への接し方は、なかなか難しいものですね。うつ状態の方へのアドバイスは、うつの重症度によっても少し異なります。たとえば死にたいという思いが強くなっているような方には、まずは休息と薬の服薬をお勧めします。場合によっては入院しての治療が望ましい場合もあります。maさんが接している方は今も仕事を続けているようですが、休日は横になって過ごすことが多く、体調も不良で食欲もなくなってきたということですから、まだ精神的エネルギーは乏しく、うつ病の症状がかなり残っていると推測されます。こうした方には、どうしたら休息を取ることができるか、相談に乗ってあげるといいと思います。主治医とも相談していることとは思いますが、しばらく仕事を休むという選択肢もありますし、休職しないにしても有給休暇を活用する、あるいは体調の思わしくないことを上司に相談して仕事の負担を減らしてもらうなど、具体的な対策をとる必要があるでしょう。また、ある程度精神的エネルギーを回復された方には、徐々に無理なく行動を起こす上で、「臨機応変」「あるがまま」といった森田療法的なアドバイスが有効になります。さらに再発を予防するためには、うつが長引いている方の中にしばしば認められる傾向—かくあるべしという完全主義的傾向によって過大な負担を自分に課してしまい、結果的に疲弊して状態を悪化させるというパターンに気づいてもらうことが大切になります。
(矢野 勝治)

keさん、こんにちは。神経症になりやすい性格、ということに自分が当てはまると気がつかれたとのことですね。さらに、少しずつでも性格のアンバランスさや執着を少しずつでも改善していきたい、とのこと。反省する姿勢や観察力に富み、さらに向上心も強いかただとお見受けいたしました。
さて、keさんが気がついたところでは、ご自身は「責任感が強くて努力家」、「融通が利かない」、「劣等感が強い」、「人からどう見られているかが非常に気になる」、「自分を表現することが下手で誤解されやすい」、「人から良く思われたい」、といった特徴があるということですね。一つ一つ私なりに考えていきたいと存じます。まず、「責任感が強くて努力家」、ということですが、これは他人や周囲に対して思いやりがあり、その思いやりにもとづいて努力を惜しまない、ということだと思います。この性格は「人から良く思われたい」、「人からどう思われているか非常に気になる」ということと関係があります。
森田療法では向上発展したいという意欲を「生の欲望」と呼び、人間にとってごく自然なものと考えています。人から良く思われたい、そのために努力をする、この気持ち自体は「生の欲望」のあらわれであり、社会生活ではむしろ大切なことでしょう。この気持ちを弱めたり、無理に変化させる必要はないのではないでしょうか。また「劣等感が強い」も「人から良く思われたい」気持ちの裏返しであり、自然なお気持ちです。劣等感は時に辛く感じられるものですが、自分を責めずに劣等感を感じた具体的な対人関係や仕事の失敗といったことから何かを学ぶことが大切だと思います。劣等感を感じる自分が悪い、と決め付けるのではなく、人生に劣等感はつきものであり、そこから何か次に生かせることはないか考えることが重要だと思います。そしてその積み重ねが性格の変化にも結びついていくのです。
次に「融通が利かない」「自分を表現することが下手で誤解されやすい」についてですが、仕事や対人関係で融通を利かせること、うまく自己表現すること、誰でもこのことは難しいのです。むしろ完全にそれが出来る、ということはまずないことでしょう。だから完全に出来なかったと感じたときでも、自分を責めずに、次に生かせることを考える機会にすればよいのです。どんな状況でも自分なりにベストを尽くす、失敗は次への工夫へと生かす、やはりこの積み重ねが肝要だと思います。
(鹿島 直之)