強迫神経症の部屋
私たちの感情とどうつきあうのか '02.12
森田療法とは感情(私たちの自然なもの)をどのように認識し、それをどのように生かすのか、をめぐる精神療法であるともいえましょう。そこでこのことは先月も取り上げましたが、とても重要なことですのでayさんの書き込みに答える形で、一緒に考えていきたいと思います。不安神経症の今月のMiさん、Liさん、Maさんの書き込みも参照ください。
Ayさんは次のように書き込みます。「子供達を連れバスと電車に乗り少し遠いところまで買い物に行きました。年内に座布団カバーを作りたかったのでうきうき気分で生地屋さんへ出かけたのですが、子供達から目を離すことも、目的の生地を選ぶことも出来ずイライラしてしまい、結局帰ることにしました。下の子をベビーカーに乗せて歩いてたのですが、怒りの感情を言葉にして上の子二人にぶつけそうになってしまい走り出してしまいました・・。必死で追いかけてきましたが泣いていました・・・後悔と怒りでわけがわからなくなり主人に電話しな がら私も泣いていました。すぐに帰ってくれと言われましたが、急に悔しくなり生地を買うのは延期にし、約束のおもちゃ売り場へ行き、主人も途中参加し食事をして楽しく過ごして帰りました。」二児の母の買い物はこのように大変なもの です。さてもちろんこのような事態はAyさんには好ましいことではないのですが、どうしたらよいのでしょうか。それに怒りをぶっつけてしまった後の罪責感もわれわれをつらくします。Maさんは、適切に助言をいたします。それが感情の法則です。ご存じの方が多いでしょうが、一応Maさんの書き込んだものを示しておきます。
「感情の法則」
- 感情は、そのままに放任し、またはその自然発動のままに従えば、その経過は山形の曲線をなし、ひと昇りひと降りして、ついに消失するものである。
- 感情はその衝動を満足すれば、急に静まり消失するものである。
- 感情は同一の感覚に慣れる従って、にぶくなり不感となるものである。
- 感情は、その刺げきが継続して起こるとき、注意をこれに集中するときに、ますます強くなるものである。
- 感情は、新しい経験によって、これを体得し、その反復によってますます養成される。
Miさんは次のように、Ayさんの大変さに共感した上で、書き込みます。
「(子供に当たるのが良いというわけではないけれど。)その後に「さっきは当たってしまってごめんね。」と言えるお母さんになれればいいのではと、最近思っている私です。」 まさにその通り、私たちが生きている以上、このやっかいでありますが、とても人間的な怒りという感情とは切っても切れないのです。この感情は破壊的ですが、時には創造的にもなるのです。怒る時には怒るしかない、それは心でやりくりしようとすると、逆に怒りが募り、最後には自分で思わぬ形で爆発してしまいます。そして自分が間違っていたと思ったら、率直にあやまる心が大切なので す。このような認識がむしろ怒りという感情とのつきあい方を教えてくれるのです。それが自覚を深めてくれます。また怒りが新しい人との関係や理解をもたらす可能性もあるのです。最初は破壊的と思ったことが創造的となるかもしれません。雨降って地固まるといいますから。
自分の苦しみは親のせい? '02.11
Pyさんが、「・・私の対人恐怖症のもとは父が恐かったと言う事が分かりました。私の父親も人にすごく気を使う性格で(でもピントはずれてるんですが)そのイライラを家族にぶつけていたと思います。なかでも私は一番最初の子だったので特に「こうしなければならない」というなかで育ってきたように思います。・・」と書き込んでいます。
またKaさんが「・・結局あたしの問題は、家庭環境-家族に帰着してると思う。けどどうすればいいのか、わかんない・・こうなった原因を追求することって、結構辛いし、親を傷つけたくない(自分も)とか、どうせ分かってもらえないとか、色々考えて。」と書き込みます。
たしかに、Unさん、Miさん、Ayさん、Alさんが書き込んでいるように、自分の苦しみ、恐怖の原因には親の養育、接し方も関係あるでしょう。ただしすべてをそれに帰着することはできないでしょう。親はその時々で親なりにつらい思いをしながら、あるいは良かれと思ってしたことが裏目に出てしまったことも多々あるからです。私たちには何が真実なのか、決めることは困難です。
ものごとには必ず2つの面があります。良いところ、悪いところです。自分を育ててくれた親の両面をそのまま認めていけるようになることがその人の成長につながると考えています。
森田を知ることとは '02.10
ここでも書き込みはいつも活発です。今回はこのフォーラムに初めて訪れたMiさんの発現を取り上げて、森田の知恵を知ることの意味について考えてみたいと思います。
Miさんは次のような書き込みをしています。「・・・主に視線恐怖、表情恐怖、対人恐怖の症状で悩んでいます。・・・私はつい2ヶ月程前に、私の悩みには神経質症という名前がついているという事をネットで知り、それからちょっとして森田療法という存在を知りました。それまでの2年間はずっと「この自分特有のおかしな悩みは何だろう」と、1人答えを探しては自分で解決法を考えてやってみたりしました。例えば、何があっても平静を装ってみようとか、鏡の前で自分で 良いと思う表情を作ってみて、その表情をキープしたまま一日を過ごしてみようとか、数え切れないほどです。」森田を知らない間は、Miさんも書き込んでいるように、自分で自分の悩みを強め、さらにとらわれを強めてしまいがちです。Miさんはさらに次のように書き込みます。
「でも全てが間違った解決方法でした。・・・この2年ほどの私の異様なはからいで、症状は自分自身で拡大するだけしてしまいました。・・・そして、その事に自分でも薄々気づいていました。なんとなく、これは自分を受け入れていくしかないんじゃないかって。だから森田療法に出会った時はすごく感動しました。治そうとするんじゃない、症状のある自分を、症状ひっくるめて自分って考えるんだ。」これが新しい発想であり、回復への第一歩なのです。そして「今では頭で解決する前に、行動が大事と思えるようになりました。前は勉強した事を頭で理解しないうちは恐ろしくて行動なんて出来ないと思っていた私だったので、大進歩だと自分で思っています。・・・これからもっと森田について勉強して実践して、症状にとらわれている間にこじれてしまった友達との関係とかも、少しずつ修復していこうと思います。・・・」と最後に書き込んでいます。
このような素直な心としっかりと森田を学んでいこうとする態度が結局問題を解決する最短距離なのです。そしてそれは単なる問題解決方法でなく、自分の人生を自分の手に取り戻す大切な作業でもあるのです。
仕事を辞めて・・ '02.09
強迫神経症のグループでは、恋、仕事の悩み、症状、うつと神経質、人との関係の悩みなどさまざまなことが書き込まれ、またそれに適切なレスポンスがされています。とても参考になります。今回は、KAさんの悩みに焦点を当ててみましょう。
KAさんが仕事を辞めて、少々精神的に楽になりました。一方、辞めた後悔や将来への不安が押し寄せてきます。自分はこの世の中で生きていけるのか、こんな人間は入らないのでは、などと心は揺れ、自分をいじめる悪循環に陥っています。
Koさんは「私は自分に言い聞かせます。『この世に不必要な人間なんていない、またどんな人生だってやり直せない人生なんて無い・・・と』」と書き込みます。私も同感です。だめと決めつけてしまえば、自己卑下の悪循環に陥ります。発想の転換、開き直りは重要です。hiさんは、無職ですが、今までの自分の経験から、「今、森田を理解してやろうと思っているのです。・・・今、KAさんも時間があります。今、このときしかできないことを自分で自問して、実行されてはいかがでしょうか?」と助言します。
Kzさんも「KAさんと同じような状況です」と書き込みます。KAさん、Kzさんは、これらのアドバイスにだいぶ勇気づけられたようです。森田先生も自ら神経質に悩み、若い頃には随分寄り道をしたようです。そして自分なりに死の恐怖の苦しみを何とか逃れたいと悪戦苦闘しました。その悪戦苦闘が結局森田療法を生み出したのです。KATUさんも、今できることは何か、を問い、やれることは苦痛がつきものだ、と 覚悟を決めながら、一歩一歩出来ることに取り組んでいったらどうでしょうか。
行き詰まりこそ自覚を深めるチャンス '02.08
Pさんが森田療法の実践に行き詰まって次のように書き込んでいます。とても大切なことだと思いますので、引用してみます。「僕は対人恐怖になって五年半、症状に関していえばほとんど変っていません。以前、森田先生が外来患者の訴える症状に対してそれは治らないよといっていたそうです。やはり森田療法は症状を治療する療法じゃないから症状は治らないみたいですね。そんなこんなで最近自分は森田療法から距離をおこうかと思っています。・・・正直、症状に関してはほとんど諦めていますし。ただ森田療法に触れていると変に理屈っぽくなったり強迫観念を作り出したりと結構疲れるんです。」
たしかに、時に森田療法では言葉そのものにとらわれ、理屈っぽくなったり、逆に強迫的になってしまう傾向が時に見られます。森田療法では、森田の知恵を学び、それを日常生活で実践し、そこでの体験をしっかりと自覚していく、というプロセスが重要です。そして自分の体験を自覚するには、他者の存在、例えば専門家、生活の発見会そしてこのような体験フォーラムの果たす役割は大きなものがあります。しかも自分の体験をしっかりと自覚し、それを次の行動につなげていくという作業には時間と根気がかかります。そして当然ながら、行きつ戻りつしながら、そのプロセスは進みますし、そこでいくつかの壁に突き当たります。この壁が重要なのです。そこで自分を知り、自分のとらわれを知り、自分の不自由な心のあり方を知るチャンスなのです。
とらわれから脱するには '02.07
Aさんが、「仕事中は仕事に集中してするとしても、ただ単に雑談や会話をしているとき、相手の目を見ないようにしていても、目つきが変になり顔が引きつります。・・・森田先生は、目に神経が集中しすぎて、よけいに悪循環になると本には書いてましたが、会話中はなすべき事を成すとはどのようにすればいいのか解らなくなりました。誰か教えてください。」と書き込んでいます。これについてさまざまな人がそれぞれ適切な助言を書き込んでいます。それらを列挙してみましょう。括弧は引用部分で、最初に私が標語風に書き入れました。症状、感情はコントロールできないものである。「恐怖という感情が起こるのは認めるしかないと思います。感情は自分でコントロールできないですもんね。・・・お互い「自然に服従」して頑張っていきましょう!」(Tさん)建設的な生き方、不安から逃げないこと「私はうああ〜〜〜ってなった時は建設的な生き方、建設的な生き方、と考えてます。」(kさん)降参すること、あきらめること「「苦しみが治らない」という事実に苦しいのです。苦しみを取るのはただ一つ「降参」するだけです。」(Sさん)自分だけが悩んでいるのではない、自分の悩みだけが特別ではない「自分も、悪気はまったく無いのに緊張から相手にそっけない態度をとってしまい、不快感を与えたり逃げられてしまったりすることがしばしばあります。だからその辛い気持ち分りますよ。同じように悩んでる人って世の中には結構いるものです。一人じゃないです。」(Pさん)出来ることと出来ないことを分けること「悩みはなくすることはできない。嫌な気持ち、苦しさもなくすことはできない。でも、その悩みは後回しにして、目の前のやるべきこと、もっと大事なことに取り組んでいくしかないのだと思います」(Cさん)
これらの認識を身につけることから、とらわれからの脱出の手がかりをつかむことが出来ます。
治るということの逆説 '02.06
このグループの6月の書き込みも活発で、「治癒—治ること」、あるいは「あるがまま」をめぐって 論議されています。この2つは密接に関係しますが、今回は治ることの逆説について解説してみたいと思います。
悩む人たちはすべてまずこの悩みを取りたい、と考えます。つまり治りたい、治したいと考えるわけです。そこで悩みの悪循環に捕まってしまいます。それを取り除きたい、と考えるがゆえに、そのことしか 考えられなくなるのです。治そうとして、症状をさらに自分で強めてしまうのです。治したいという素直な気持ちは大切です。それと症状を取り除くということは全く違うことなのです。治すためには、症状を取り除くという意味での治すことをあきらめなくてはならないのです。
このことは、古今東西を問わず、人間の知恵として存在するようです。わたくしたちの不安、抑うつ、恐怖、強迫観念などを治すには、何もしないこと、そのままにしておくこと、つまりコントロールすることをあきらめることです。
いやいやながら持ちこたえていくこと '02.05
普通神経質の部屋をのぞいた後に強迫神経症の部屋をみると、Cさんの書 き込みが目に付きました。ちょうど「治るということ」は逆説的ですが「治すことをあきらめるということ」と「持ちこたえること」が大切と私自身が書いたあとでしたのでなおさら興味をもちました。
Cさんは「世の中、嫌なことや面倒くさいことがたくさんあります ね。・・・落ち込んでいたり、職場の皆の中に入っていくのに大きな恐怖を感じ ていたり、仕事が順調でないときには... 本当にイヤでイヤで仕方ないこと もあります。しかし、そういう気持ちを押して、ともかく会社に着いてしまえば 案外、気持ちが流れるということもあります。・・・ある日、気がつきました。
このイヤイヤ気分はなくなることはない...と。・・・無限に繰り返されるこのイヤイヤ気分との 戦いは一生つきあっていくしかないのだと....。・・・ 毎日毎日、このイヤイヤを味わっていれば、だんだんとそれが当たり前となる。気がついたら、苦痛苦痛と思っていたものが、実は苦痛ではなくなってい た...なんてことが...。」といいます。
これがわたくしの強調したい「持 ちこたえること」です。そこにはイヤイヤ気分を 動かすことのできない自然な事 実として認め、それと付き合っていくしかないと次第に心が定めれば、それ自体 苦痛でなくなるという逆説があるのです。そこに人間としての成長があり、そしてそれとほぼ同時的にその人らしい生の欲望のあり方が次第に姿を見せてくるの です。それが治るということです。しかし生きることには、いやなこと、悩むことはつきものです。それをそのまま事実として受け止めていければ、また生きる 喜びもしっかりと体験できるのではないでしょうか。
完全主義者への処方 '02.04
Sさんが完全主義者の行き詰まりについて述べています。Sさんは、自分自身の問題点として、
- 観念的な不完全恐怖、観念的な儀式的行為、
- 即応性の なさ、
- 人間性の事実の再認識 、
- 想念に対する姿勢 、
- 気分・感情に対する 認識
- 劣等感、
- ある納得が得られるまで行為をする、
- all or nothing
を挙 げ、なかでもall or nothingが一番問題だ、としています。私も完全主義者とは 白か黒かに決め付ける人と考えています。そのことが生きることの行き詰まりを 招きやすくします。
これは神経質、特に強迫神経症のグループに書き込む人たちの特徴でもあります。その処方として、
- まず完全主義者であることを自覚すること、
- 自分の気分、不安、体調など自然な心と体の反応に対して完全主義で あろうとするとそのことにとらわれてしまうことの体験的理解、
- 自然な心身の反応は自分の観 念的操作が及ばないものであるというあきらめ、放っておく勇気、
- この体調が、不安が、気分がよくなってから自分のしたいことをやろうという考えからぼちぼちと出来ることから手を出していくという発想の転換、などです。いずれにせよ、生きていくうえで完全ということはありません。特に私たちの 感情的反応は、それを完全に思うがままにしようとすると苦しくなるのです。行き詰るのです。
神経症の悩みは周囲に理解されるのか '02.03
Aさんが対人恐怖中でも醜形恐怖がひどく、外出できなくなりました。そして精神科で治療を受けようとしたのですが、両親はわかってくれません。Aさんは絶望しています。Bさんが率直に自分の悩みを伝えていくことを薦めます。Cさんは、人生にはいいときも悪いときもあり、今まではよいときだけ行動し、悪いときにはすべてを放り投げてきた、しかし悪いときにでも必要最小限のことを行動するようになってきてからは、急速に神経症が良くなってきた、といいます。つまり神経症で悩むことは、症状のことで悩むと共に、行動が極端となり、それ自体がその人を追い詰め、さらに苦しみを加速されることになります。このような状況から抜けるには一人ではしばしば困難です。生活の発見会のような自助グループでの集団学習、専門家のアドバイス治療を必要とします。
しかしAさんのように親の理解が得られない場合がしばしばあります。どうしたらよいでしょうか。わたくしもBさんの助言に賛成です。自分の悩みを率直に、そして粘り強く説得していくことです。そのことは自分の悩みを人にわかりやすく説明する作業を意味します。神経症の悩みはしばしば人に理解してもらえてというだけで軽くなるものです。あるいは自分の弱点と思えることを人に率直に伝えられることだけでよくなることもあります。何がつらいのか、診断名、症状の名前でなく、自分の悩みとそれゆえに自分のしたいことができないのだ、と真剣に伝えれば多くの場合、次第に周囲の理解を得ることができます。そしてそれを家族に理解してもらうにはうまくいかないと投げ出さずに、Cさんがいうように、粘りづよくすること自体が問題解決の第一歩です。
治ることをめぐって '02.02
強迫神経症のグループでの書き込みとお互いのリスポンスは活発です。このような お互いのやり取りから、ここでの参加者がそれぞれの自分の生き方を模索している様 子が見えてきます。それが自分として生きていくことそのものだろうと私は考えてい ます。
A さん、Bさんがとらわれから脱却するには、つまり神経症から治るには「治す努力を止めること」と書き込んでいます。これが森田のいう逆説です。これは また不安の逆説でもあるのです。不安から逃げようとすればするほど、それを取り除 こうとすればするほど、不安は強まるのです。私たちが悩んでいるときも同じです。その悩みを何とかしようとするから、事態は悪化し、逆にその苦悩は深まります。私 たちが苦悩に直面したときには、それをしっかりと持ちこたえながら、今できること は何か、と発想を変えることが大切です。
従って私たちが苦悩を取り去ることを諦めたならば、本来の生きる欲望がしっかり と感じられるようになります。それはCさんがいう「自分で治すのでなく環境に 治してもらう」ということにつながります。結局のところ、治すことを諦めるという ことは、本来の固有で自然な自己の生きるということであり、自然に従順になること でありましょう。
基本に戻ること '02.01
このグループの話し合いはとても活発です。それを読みながらわたくしの感じたことを書いてみます。Aさんが「森田の基本に戻ろう」と書いています。森田の基本とは「びくびく、はらはら、震えるままに、必要なことをやっていく」ということです。わたくしも賛成です。何か生きることに行き詰まったときに、森田の基本に戻ることは大切だと思います。また「不安のままに、できることに手を出す、そこでの工夫を凝らしてみる」つまり森田療法でいう「あるがまま」ということです。そして現実に接して、そこで格闘しながら、悩み、苦しむことはその人を確実に成長させます。したがって基本に戻るといっても、そこには最初と違ってさらに深い森田療法に対する理解、あるいは自己の生き方に対する洞察があるのだろうと思います。
そのような取り組み、生き方はまたBさんがいうように「これでよいのだ」という自己受容を可能にします。もちろんCさんのようないわゆる失敗もあるでしょう。しかし大切なことは失敗したということではなく、何とかチャレンジできたという事実です。そしてまた初心に戻ればよいのです。