強迫神経症の部屋

今回は、akさん、roさん、stさんなど、対人的な症状に悩んでいる方の書き込みが多かったようです。日常生活で人との関わりというのはどうしても避けられないものですから、色々と悩んでしまいますね。
実際こうした症状に悩む人は、akさんが「人と話すのが好きなんですが・・・」と書いているように、人一倍人との関わりを求めている人が多いのです。それだけに「よそよそしくならないようにしなきゃ(roさん)」と考えて、「打ち解けて話せない(akさん)」ことに悩むのです。つまり、相手に好かれたい、ちゃんとした人間関係を持たなければいけないと気負いすぎて、かえって自分を縛ってしまうわけです。そして、結果的に関わりを避けてしまったり、相手との関係を築くことが置き去りにされてしまうのです。

では、人と人との関係というのはどんな風に作られるものでしょう?
初対面の印象だけでその相手がどんな人かを決めているでしょうか?関わらないうちから相手がどんな人かを理解できるような千里眼を持っているでしょうか?

そうではないですよね。お料理でも、食べないうちからそれが美味しいかまずいかがわからないのと同じことです。どんな人なんだろう、どんなことに興味を持っているのだろう・・・などと関心を持って、相手と関わるうちに分かり合うことが出来るようになるのではないでしょうか。しかし、対人恐怖の人は先に結果を求めてしまう・・・何よりも相手と関わり、どんな人かを見る前に自分を完璧にしようと構えてしまう、まさに気持ちとは裏腹なシャットアウトですね。それは順番を逆に考えてしまうために生じるのです。roさんがとても貴重なことを語ってくれています。「ご主人とのお付き合いでも、最初はとても緊張したが、緊張しながらも話をあわせて付き合っているうちに症状が出なくなっていた。不思議です」と。緊張しない自分で付き合うのではなく、緊張しつつも付き合ううちにいつのまにか症状がなくなっていく、傷口が気になりつつもそのままにしていると、いつのまにか瘡蓋が取れているのと同じですね。「不思議」という一言に、自分が思い描いていた方向とは違っていた・・・という思いが含まれているようですが、ここに糸口があるのです。

勿論、症状とそのまま付き合うのは初めは辛いことでしょう。しかし、折角辛い思いをしながら付き合うのですから、自分をどう見せるかは後回しにして、「人が好き」「良い関係を築きたい」という欲求の原点に立ち戻り、相手がどんな人なのかをよく見て、聞いて、知ろうとすることに力を注いでみましょう。そして、こういったフォーラムの場を大いに活用して、人と関わりあう体験を重ねてみましょう。失敗の経験も成長の大事な肥やしになりますよ。
(久保田 幹子)

「人と関わる事が苦痛で仕方ありません」というBLさんの悲痛な訴えに対して、その日のうちから多くの方が応援のメッセージを書き込まれました。一人ひとりのアドバイスを見ると、いずれもご自分の体験に根ざした適切な内容でしたから、さらに私から「屋上屋を重ねる」ような助言は必要ないと思います。皆さんの書き込みを見てBLさんも随分心励まされたに違いありません。何といっても「こういった悩みを抱えているのは自分ひとりじゃないんだ」という事実を知ることは大きな救いになるはずです。助言を寄せられた方々とBLさんのやりとりは、実に心温まるものでした。そしてBLさんはわずか2週間後にはバイト面接まで踏み込んでいるのです。すごいことだ!

これまでも随所でこのようなやりとりがなされていますが、今回のBLさんの書き込みを発端にした相互交流には、体験フォーラムの面目躍如といった感があります。何といってもネットを媒体にしたフォーラムは情報の交換がすばやく、誰かがピンチに陥ったときにタイムリーに助言を送ることができます。応援のメッセージを書き込んだ方々は、きっと忙しい日々を送っているはずですが、まだ見ぬ仲間のために手をさし伸ばす=アドバイスを書く時間を一生懸命やりくりされたのですね。自分のためではなく誰か他の人のために時間を割きエネルギーを傾けるという行為は、まさにそのとき自分自身の症状へのとらわれから脱していることをも意味しています。またBLさんが未知の人に向かって助けを求めるメッセージを書いたこと、それ自体が人の助言を受け入れ何かを始動する機が熟したことを意味しているともいえるでしょう。こうしてみると、訴えを発信することもそれに対して応答することも、等しく互いの援助につながっていることがよく分かります。どうかこの掲示板をご覧の方々は、これからもどんどん自分から書き込みをしてフォーラムを大いに活性化させてください。

蛇足ながらBLさんへ。これまで述べたようにネットでの交流を大いに心の糧として、一歩ずつ歩みを進めてください。そしてできれば、直接顔と顔をつき合わせるような交流の場も探せるといいですね。生活の発見会に入会し、恐る恐る集談会に参加してみることもその一つです。またもしもそのような行動が困難であれば、入院森田療法の場で人との関わりを直接体験しながら行動を広げていくことも選択肢のひとつです。今後の健闘を祈ります。
(中村 敬)

yuさん、はじめまして。「症状は相変わらずですが、少しずつ良くなりつつあります」とのこと。良かったですね。「少しずつでも良くなっている」という「事実」を大事にしましょう。少しずつで良いのです。あせらず、ゆっくりと1日1日を丁寧に過ごしていきましょう。

さて、「子供を持つか、持たないか」というお悩みを語っていらっしゃいますが、なかなか難しい問題ですね。「縁起恐怖」であるなしにかかわらず、「子供がどんな風に育つのか」「高齢出産のリスク」などは誰もが考える自然な悩みであると思われます。しかし、貴方がおっしゃっているように「症状にとらわれてしまっている」のであるとすれば、そこには解決の糸口を見出すことができます。まず、貴方が抱えている不安が「現実に起きている不安」であるのか、それとも「もしもの不安」であるのかを冷静に分けて考える必要性があろうかと思われます。すなわち、今考えてみて答えが出るものであれば大いに悩むことが必要でしょう。しかし「もしもの不安」にとらわれて不安が不安をよぶ、堂々巡りの状態であれば、その不安はそのまま棚上げしてみてはいかがでしょうか。その上でもう一度、貴方自身の気持ちの整理をしながら(貴方自身が子供を持ちたいのか、そうではないのか)、ご主人、ご家族、産婦人科の先生、精神科に受診しているのであれば主治医の先生の意見を参考にして、今後の方針を考えてみてはいかがでしょうか。あせらず、ゆっくりと1つ1つ考えていきましょう。必ず、道は拓けます。
(川上 正憲)

Chさんは、顧客先での説明の際にうまく言葉が出なかったことから、帰りの電車の中でも同僚の人達とほとんど話さなかった由。それを気にされて、「そんな時でも最大限の努力をすべきだった」と振り返っています。

しかし振り返って考えてみると、久々の出張といういつもと勝手が違う状況では、緊張するのも自然なことではないでしょうか。そんなときにはスラスラと言葉が出てこないこともうなずけます。しかしChさんはそれをあってはいけないことと考え、「話下手が明らかになってしまって恥ずかしかった」と気にされたのですね。帰りの車では、「心の中の葛藤が凄かった」ということですから、自分の「失態」が頭の大半を占めて周囲の人の話が耳に入らず、話をする状況になかったのではないでしょうか。つまり自然な緊張を「こうあってはならない」と否定するために葛藤が生じ、一時的なとらわれに陥ったのでしょう。ですから、先ずはどんな状況でどんな感情を抱いたのか、それは本当に否定されるべきことなのかよく吟味してみてはいかがでしょう。こうしたことを通じてよく自分を知ることが、「自分自身と付き合う」ことに繋がるのではないでしょうか。

向上心の旺盛なChさんは、よく内省され、どうすればよいかを考えているのですね。Chさんの言われるように、感情に流されず目的本位に行動していくことは大事なことです。なるべく分かりやすくお客さんに説明できるよう、しっかり準備をし、緊張しながらも相手に伝えていく努力は大切です。それができれば緊張の有無は大して問題にならず、むしろ緊張は真剣に臨んでいる証拠とも言えるでしょう。また雑談のときには、無理に自分から話題を見つけようとしなくていいのです。それより人の話に耳を傾けることです。そうすれば話の流れの中で自然に言葉も浮かんでくるかも知れません。「話し上手より聞き上手」という言葉を思い出してください。
(矢野 勝治)

naさん、こんにちは。うつと確認行為がひどいときがあり、2回精 神科の入院経験があるのですね。辛くなったときには安定剤の筋肉注射もして いるのですね。さらに、一回目の入院から日々の葛藤を抱えながらの6年間、本当に大変でしたね。
次々に襲ってくる強迫観念、確認行為、どれも逃げ出し たいほどの苦痛の中で、どうやって踏みとどまって生活をしておられたのです か?
hide0810さんもおっしゃる通り、すごい底力と意志の力を感じさせられま す。また、ご意見として、今の自分にできることを見つけてやる、結局地道な 努力の積み重ね、とおっしゃっておられますが、全く同感です。
今の自分に出 来ることをやる、これは口でいうほど簡単なことではありません。症状や不安 に圧倒される中で、現在のやるべきことに立ち向かうこと、これはとても難し いことなのです。しかし、症状や不安がいかに強くとも、すでにそれは一瞬前 のことであり、通り過ぎようとしていることです。通り過ぎようとしているこ とにこだわらず、現在にとりくもうとする心の強さを養っていくこと、これが 治療であると思います。そしてそのためには日々の地道な努力が欠かせませ ん。治療に王道はないのです。
naさんの努力の方向は正しいように感 じます。さらに、症状以外のことに目を向け、感謝しながら過ごす、誰かが支 えていてくれること、自分も世の中の役にたっていると信じることをすすめて おられますが、これらもとても重要です。症状がある中で感謝して過ごす、非 常に難しいことですが、症状や病気を、自分が変化するチャンス、心の強さを 身につける機会として前向きにとらえるときに、症状をこだわらずに受け入れ ることがある程度は容易になると存じます。
また、支えてくれる誰かのこと や、自分も役に立っていることを意識することが、努力をする上で、大いに励 みになるでしょう。naさんのいままで血のにじむような努力のなかで 得られたお考えの数々に、私も大変感銘を受けましたし、hiさんもとて も感謝しておられます。naさん、本当にありがとう。是非いまの努力 を続けてください。今後も大いに人の役に立てるかただと信じています。
(鹿島 直之)

こんにちはyuさん。yuさんは、数字に対する縁起にこだわってしまい、そのことに悩んでいるようにお見受けします。
「縁起の良くないことと数字が常にセットになって記憶される」と表現されている位ですから、さぞかし辛いのではないかとお察します。
しかし、「縁起」という言葉は、我々の日常生活の中では、ごく当たり前に使用されています。「縁起をかつぐ」「縁起が悪い」などは、まさに日常的な表現であるといえるでしょう。さらに、我々は、知らず知らずのうちに、数字と縁起を関連付けて生活しているようにも思います。
このことは、ホテルの部屋番号の表記の際、特定の番号を敢えてはずしていることなどからも見て取れます。つまり、我々は、心のどこかで常日頃、縁起をかついで生活していることになるのです。裏を返せば、それだけ災いを避けて、安泰な生活でありたいと念じているのだと思います。このような観点からみれば、yuさんの悩み自体は、ごく自然なものであると言えます。
むしろ、yuさんの注意すべき点は、数字と縁起を結びつけるか否かというところに心のエネルギーが裂かれてしまい、本当の意味で日常生活に打ち込めていないところにあるように思います。つまり、縁起の悪いことを連想しないようにすることが大切なのではなく、縁起を担ぐ背後にある「よりよい生活を送りたい」という欲求を生かしていくことが大切なのです。
森田療法では、このような向上発展したいとする欲求を生の欲望と呼び、この欲望を生かしていくことが神経症治療の中で重要であると位置づけています。ですから、yuさんは、縁起に対する拘りを持ちながらでも、身の回りの生活を少しずつ豊かにされていくよう努めていっていただければと思います。
取り組み当初は、当然、苦痛も伴うでしょう。しかし、生活への取り組みを続けることで、頭だけの理解だけではない、真の意味での体得が得られることになると思います。
是非頑張っていただきたいと思います。
(樋之口 潤一郎)

Fuさんは「昨日仕事での失敗やうまく報告ができなかったせいで、怒鳴られてしまってから不安になってしまいとらわれてしまいました」と書いています。
忙しい診療所での受付医療事務でしたら、職場の緊張感も高いでしょうし、その中で頑張ってお仕事をされているのですね。きちんとやろう、怒られないようにしようという気持ちが強いだけに叱責されたときのつらさも大きいのでしょうね。
そういうときは「なんとかしなくちゃ」と思って焦ってしまい、頭の中が真っ白になってしまうもの。
こういうときこそ、逆に一呼吸、が大切になります。
真面目な人ほど怒られたとき「使えないやつと思われてしまった」と自分のすべてを否定されてしまったように感じたり、「自分は駄目な人間だ」と自分にレッテルを貼ってしまったりしてしまうようです。そういうときは、一呼吸置いて、それから言われた内容に目を向けてみましょう。「今はこのことで怒られたんだ」「これを直せばいいんだ」と自分に 言葉にしてあげるのもいいかもしれません。こうしたときの森田先生のもうひとつの知恵が「弱さになりきる」ということです。一旦「自分は気の利かない、弱い人間だ」と思い定める訳です。そうすることで「怒られないように」「失敗しないように」という構えから離れ、その場で必要なこと、求められていることに目が向けられてきます。
ビクビク、オドオドしながらでよいので、お仕事に向かってみてください。Fuさんの神経質が生かされている場面、きっとあるはずです。
(塩路 理恵子)

mo様、森田療法の本に出会えてよかったですね。赤面恐怖などの対人恐怖に対して森田療法は有効な治療法です。mo様の「こちらに発言するのも、とても緊張しています」の言葉に赤面恐怖で悩まれていることが伺えます。ただ発言すると緊張すると思いつつもまず今回書き込めたご自身をほめてあげましょう。「こちらにお発言するのも、とても緊張しています」の背後にはmo様の様々な「生の欲望」が隠れているような気が致します。例えば、「こ のホームページで発言して自分のことを理解してほしい、あるいはよく思われたい」などです。逆に言えば、ホームページでご自身の書き込みを読まれてわかってほしい気持ちが少なければ、緊張もしないわけです。つまり緊張はあってはけないものではなく、ある程度緊張をして自然な時もままあるわけです。ところが神経質的な構えが強いとこの緊張を あってはならないと思い排除しようとするとますます緊張は強まってしまうわけです。ですから緊張を無くそうとせず、緊張のまま、おそるおそるで良いので、緊張する場面で必要なことを言ったり書いたりしてみましょう。今回びくびくしつつ書き込みをされたのが第一歩だと思いますので、これからも同じような気持ちを持っていても良いので思い切って書き込みをしてみましょう。
(舘野歩)

haさんは、人付き合いで悩んでいます。相手に合わせ過ぎて疲れてしまった経験から、最近は少しでも嫌なところがあるとそれが気になって付き合いを続けることが出来ないということです。haさん自身も「人と交わりたい欲求がとても強いのに、人と付き合うのがすごく疲れてしまう」と書いていますが、欲求が強いだけに、自分が全く失望しない完全な姿を相手に求めてしまっているのでしょうね。まさに一点の曇りも許せない、といったところでしょう。こうした心境は、snさんが書いている「もやもや」した気分であり、それをすっきりさせたいために関係を断ってしまったり、もやもやするくらいなら近づかないということになるのでしょう。本来の「人と交わりたい」という願望を考えるととても勿体ないことですね。snさんはこの「もやもや(感)」との付き合い方が課題と書いていますが、これはsnさんに限らず、神経症に悩む人全てに共通する課題とも言えるでしょう。
この「もやもや」は、現実が理想どおりにいかない時に生じる気分であり、それを受け入れがたいために、「もやもや」にとらわれてしまうわけです。こんな時、私はよく次のような喩えを用いて、「もやもや」との付き合い方を考えてもらうようにしています。それは、「もし車を運転している時に、霧がたちこめてきたらどうするか?」ということです。当然、霧などなく視界が開けていた方が気持ちよく、また安全に運転できるわけですが、霧は自分の思ったようには晴れてくれませんし、そこで車を止めればかえって危険になります。つまり「もやもや」と付き合いつつ運転をせざるをえないわけです。ではそんな時、皆さんだったら何を頼りに運転をするでしょうか?大抵の場合は、薄ぼんやり見える前の車のテールランプや、センターラインを頼りに運転をするでしょう。そうしているうちに、自然と霧は晴れ、視界が開けてくるはずです。haさんの場合も、「もやもや」しつつも「人と交わりたい」という本来の欲求を頼りに関わってみたらどうでしょう。もしかしたら、少しずつ視界が開けて、これまで見えなかった相手の長所が見えてくるかもしれません。snowberryさんは「もやもやの中で生きる」と宣言してくれましたが、本来求めている生活に近づくために、とりあえず出来ることを頼りに霧の中を進んでみることです。単に「もやもやに耐える」だけではない、新しい発見があるはずです。
(久保田 幹子)

Koさんは書きました。「自分に自信がなくて昔から人と話すときに緊張したり、面白いことを話さないととかプレッシャーがかかったり、自分の行動が気になったり嫌になったりすることが多くて悩んでいます」。きっとこのフォーラムを見ている多くの方が、自分と共通の悩みだなと感じられたことでしょう。これまでの体験談や医師のアドバイスなどに悩みの解決につながるようなヒントがあるはずですから、ぜひ参考にしてください。ここでは繰り返しになるかもしれませんが、そのポイントをお伝えしておきます。
文面から推測すると、Koさんは「新しい友達づくりをしたい」「皆と打ち解けたい」「人に好かれたい、受け入れられたい」と切実に願っているのでしょうね。人間関係を築いていくには、まずKoさんのようにそれを求めることが出発点です。ただ Koさんの場合、人とよい関係を作るには「面白いことを話さなくてはならない」「変に思われてはいけない」「緊張したり動揺してはいけない」といった「こうあるべき」「こうあってはならない」という考えが強すぎするように見受けられます。実際には親しい関係になるまでにはどうしても時間が必要であり、そこに至るまでよく思われたい気持ちが強ければ悪く思われないようにと緊張するのも自然なことです。にもかかわらずKoさんは「緊張してはいけない」「素の自分を見せてはいけない」という思いが強いため、自分の緊張を絶えず監視し緊張を自覚するとそそくさと話をやめてしまっているのではないでしょうか。そのとき注意は、対面している相手ではなくもっぱら自分自身に向いているはずです。
上記のことに思い当たるようでしたら、今日からこれまでと違う関わり方を試みてはいかがでしょうか。それはまず、あってはならないものとして緊張と戦うのではなく、緊張するまま、ハラハラビクビクしたまま、人との関わりを避けずに続けていくことが基本です。それからもうひとつ、人間関係を築くには「面白おかしい話をすること」よりも相手の話に耳を傾けること、つまり「話し上手」より「聞き上手」を心がけることです。それは会話の際だけでなく、相手のことに親身になって考え振舞うことにも帰結します。そのような行動ができればおのずから、人から信頼を寄せられるようになるはずです。
(中村 敬)

chさんへ。この半年間仕事に全力投球して、大きなものを得られたと感じられたようですね。結果は残念なことにプロジェクトは中止になったとのことですが、chさんが懸命に目の前の仕事に取り組んだことには変わりありません。そしてなによりも、プロジェクトが中止になってからの1ヶ月間、おそらく悩みに悩んだ末に到達した「苦しむことは仕方ない」「(それでも)自分のやるべきと思うことをやっていくのみ」という言葉に、力強さを感じました。何だか、からりとした心境のように見受けられます。
それからchさんは別のところで書かれています。「何か問題をクリアしていくときって、それだけでなく総合的な力というか、生活の幅からくるその人の全体力のようなものが大きな力になると思います」。そのとおり、全体力っていい言葉ですね。たしかに、生活の幅が狭まると、視野も狭窄して袋小路に陥りやすくなるようです。反対に、行動の幅が増して関心が広がると、ふとしたことからヒントが見つかり、力づくで解決しようとしても果たせなかった問題が自然に解けていくということがありますね。ただし、無理やりいろいろなことに手を出そうとすると、首もお金も回らなくなってしまいます。特別のことでなくあたりまえの生活の中でも、その気になって探せば興味を惹かれることが多々あり、工夫のしがいもあるものです。試しに今夜、安くておいしい食事を取るために一工夫してみませんか。
(矢野 勝治)

IKAさん、こんにちは。森田療法と薬の関係で悩んでおられるということですね。真剣に神経症を治そうと取り組んでいるからこそ、起こってくる当然の疑問だと存じます。さてSSRIについてですが、日本ではフルボキサミン(商品名:ルボックス、デプロメール)、パロキセチン(商品名:パキシル)の2種類が用いられています。どちらも神経症の不安や症状に有効で、抑うつや意欲の低下といった抑うつ症状にも効果があり、副作用も少ないお薬です。単独か、または抗不安薬と一緒に用いられ効果を発揮します。さて、IKAさんもSSRIを試してみたくなる、とのことですね。お気持ちはよくわかります。神経症の不安や症状は、なかなか周囲からは理解されずらいものですが、本当に辛いものです。
少しでも楽になるのであれば、と思うのが人情です。しかし、maさんやunさんが言われているように、薬だけでは根本的な解決にはなりえないと思います。薬は確かに不安や症状を和らげますが、不安や症状の原因となっている不適切な行動や考え方を変えることはないからです。しかし、そのような不適切な行動や考え方を変えることなしには、一時的に良くなったように見えても、それこそ薬を減らしたり、中断すればすぐに再発ということにもなりかねません。薬はあくまでも不安や症状を和らげ必要な行動に踏み出すハードルを下げる役割、というように考えていたほうがいいように思います。
治療の主役は、やはり不安や症状があっても必要な行動に取り組む努力の積み重ねです。
IKAさんが不安や症状が強いために踏み出すことが出来ないが、どうしてもしなければならない必要な行動がある、といった場合にはSSRIの使用のことを含め薬物療法を主治医の先生と再度相談されてみてもいいと思います。主治医との相談の結果、薬を増量したとしても、不安や症状から逃げないよりいっそうの努力が重要でしょう。IKAさん、今のお気持ちで頑張ってくださいね。maさんのいうように薬に頼らないことも一法です。不安が強いことにそのまま取り組むほど収穫も多いものです。実際の生活の中では、不安や症状に出くわしてもあれこれ考えずに目の前のことへ前進、前進しつづけてください。
(鹿島 直之)