強迫神経症の部屋

はじめまして、Yさん。16年にも渡る闘病生活はとても苦労の連続であったと思います。このような状況であっても常に「早く克服したい」という思いを絶やさなかった姿に、Yさんの生きようとする力強さを深く感じさせられます。

ところでYさんは成人の男性や傷つけられた人との接触を非常に恐れているようですね。ただ文面から察するに、Yさんは単に彼らを恐れているのではないように思いました。本当のところ、Yさんは、直接関わることで湧き上がって来るご自身の嫌悪感に一番手を焼いていたのではないでしょうか? その嫌悪感を排除しようとした結果、彼らとの関わりを避け、閉塞的な生活に陥っていたのだと思います。しかし、このことで一番望んだ生活も手放してしまった。それ故、Yさんは、強い孤独と絶望を感じているのだと思います。

けれども、このような強い絶望感にこそ、周囲との関わりを切に望んだYさんの思いが隠れていると、私には思えてなりません。そうだとすると、あらためてYさんが、周囲との関わりを持つこと無しに回復することはありえないのだと思います。では、具体的にどうしたらよいか? この点は直ぐに解決が付くわけではありません。しかし、確実にいえることは、何らかの関係が深まる際、相手に対する嫌悪感が必ず付いて回るということです。そしてYさんが求めているものは、関わり続けないと絶対に得られないということです。このことは、Yさんに限らず、自分自身が神経症の患者さんを治療する上でとても大切なことであると常日頃から感じています。

「良いとこ取り」と「即効性」だけを求めては、神経症から回復しないのだと考えています。しかし、Yさんは、地道な関わりを厭わずこの体験フォーラムにやってきました。「地道に勝る近道なし」という思いで、様々な人々とのわりを深め、実生活に生かしていって欲しいと願っています。是非頑張ってください。
(樋之口潤一郎)

Bさんは、「結婚して、旦那の実家に同居してから、加害恐怖に苦しんでいます。事件のニュースを見ては自分もこんなふうになってしまい家族に迷惑をかけるのではないかと恐怖で、自分がそうならないと確証が得るまで考え続けてしまいます。」と書き込んでおられます。

「包丁を持つと誤って人を刺してしまうのではないかと思い、包丁も握れなくなってしまいました。毎日包丁で人を刺してしまうイメージが頭の中に何度も浮かんでしまいます」とのこと、かなり症状もおつらい様子ですね。服薬については、主治医の先生とよく相談されてください。
森田先生は強迫観念について「自分がフイと心の調子が狂って自分の赤ん坊を踏み殺すのではないかという恐怖や、自分の妹を空気銃でうつようなことがあっては大変との恐怖や、高貴の人や神仏を冒涜することの恐怖等皆そうであってはならぬという拮抗心から起こることで、普通の人はそのままに思い流していくけれども、強迫観念はこれを恐怖するために私のいう精神交互作用によってますますこれに執着するようになる」と書かれています。
結婚して、ご主人の実家で同居を始めるということは、大きな環境の変化ですね。

その中で「新しい生活を守りたい」「幸せな家庭を築きたい」という思いを強く持ったことでしょう。もしかしたら、結婚して守りたいものが増えたのかもしれませんね。それが、「間違いがあったらいけない」「万が一ということがあってはいけない」という構えになってしまい、加害的な強迫観念にとらわれてしまったのかもしれません。まずは、強迫観念の裏側にはそうした「幸せになろう」という「生の欲望」があることを知ってください。
「自分がそうならないという確証」を得ようとして、却って注意が不安に向き、小さな不安の種を拾い上げてしまい、悪循環に陥ってはいないでしょうか。 どんな不安も、恐ろしいイメージも、そのままにしておけば、いずれ流れていくものです。そのためには、「待つ」「時間を味方につける」ということも必要ですね。

不安を完全になくそうとすることで陥っている悪循環から離れ、本来持っている「幸せな家庭を作りたい」という願いを取り戻していってください。
また、加害恐怖に悩む人は、日常的な「人に対して腹が立つ」ということにも、「あってはいけないもの」と否定しようとすることも多いようです。生きる上での自然な感情を「あるがままに」認めていくことも大切です。

最後に、ご主人は実家を出ようかと言ってくれているとのこと、Bさんとの生活をとても大切に考えてくださっているのですね。実際に同居を続けるか、別に暮らすかについては、やはりご主人とよく話し合い、症状のために決めるのではなく、今後の生活設計をしていく中でどちらを選択するかを決めるのがよいと思います。
(塩路理恵子)

Mさんは、失業後1年ほど引きこもり生活をしており、何とか脱したいと思いつつ、また同じような苦しい状況に置かれた時にどう対処すれば良いのか分からない、次回はこうしようという心構えが出来ない・・と書かれています。

確かに、同じような苦しみや失敗を繰り返したくないと思うのは自然な気持ちですね。特に、それが失業・・・という事態に至っていたとしたら、不安や恐怖心を抱くのは致し方ないことと思います。しかし、Mさんが1年間のひきこもり生活を通して、「兎に角、現状から脱しなければならない」と考え、このフォーラムに参加されたこと、それ自体がまず貴重な第一歩と言えるでしょう。そうした切迫感なくして、脱出は不可能ですから。
私たちは、嫌な思いや苦しい思いをすると、それを回避しようとします。それは人間だけでなく、動物も同様で、ある意味自然な防御反応と言えます。ただ人間は、そこで「考える」という能力を必要以上に発揮し過ぎてしまうのかもしれません。つまり、知ることが不可能なことまで知ろうとしてしまう、ということです。同じ状況、苦しみ、失敗をしたくないと思った時、私たちは何とかそれを避けようとして、わかるはずもない未来をあれこれ想像します。あるいは、そこでどのように振舞い、対処するかをシュミレーションしようとします。しかし、これはあくまでも想像の世界であり、現実化するとは限らないものです。私たちの人生がシナリオ通りにならないのと同じことでしょう。しかしながら、万全を期したいという思いから、不可能なことまで可能にしようとして、結果的に保証されない未来に対して恐怖心をつのらせてしまうのです。こうした姿勢の根底にあるのが、「ちゃんと対処出来ないのではないか」「また同じ苦しみを味わうのではないか」という“予期不安”であり、これが新たな一歩を妨げているわけですね。

では、どうしたらいいでしょう?
森田療法で繰り返し言われていることですが、不安とは、「万全でありたい」という欲求と表裏一体のものです。つまり、ちゃんとしたいと思うからこそ、そう出来なかったらどうしよう・・・と不安に思うわけです。しかし、この不安があるから、逆に「ちゃんとする」ために必要な行動を考えたり、それに着手することが出来るとも言えるのです。ただしそれは、「今、出来ること」であり、変えられない“過去”でも、わからない“未来”でもありません。
Mさんが「わからない」と悩んでいること、すなわち同じような苦しい状況に置かれるのかどうか、あるいはその時の対応や、心構えは、今シュミレーションをしてわかることでしょうか?あるいは、考えることで身に着くものでしょうか?わからない未来に怯え、刻々と過ぎていく「今、この時」を過ごすのはとても勿体ないことでしょう。私たちは、永遠に生きることは出来ないのですから・・・。実際、MIYAさんも不安を避けながら、そうした自分に居心地の悪さを感じているようですし、「避けること」「じっと動かずに考えること」は本当の安心や手ごたえには繋がらないということですね。

まずは、「このままでは嫌だ」という気持ちを足がかりに一歩踏み出してみましょう。そして、もし前回の失敗で自分の反省点を思いつくのであれば、それを新しい場所で試しながら、身につけていけば良いのです。例えば、仕事で行き詰った時に抱え込んで自滅してしまったのであれば、次は早め早めに動く、周囲に相談をする。朝、行きたくないなと思った時に気分に流されずに、とりあえず「会社に行く、席に座る」といった形を整える・・・などです。やる前から自信がある人はいないものです。試行錯誤の中で、少しずつ実践が出来るようになった時、初めて身に着いた・・という自信が生まれるのです。「ちゃんとした自分になってから動く」のではなく、「失敗も含めて、色々な経験を通して一人前になろう!」くらいに考えてみましょう。社会のハードルが高いのではなく、案外自分がハードルを高くしてしまっているのかもしれませんよ。
(久保田幹子)

Yさんは書きました。「先日の発見会で他地区の内科の先生がお見えになって、強迫行為についての的確なお話がありました。例えば手洗いについて、汚いと思っても我慢する5秒でもよいから我慢する。汚いものから逃れようとせずそのままの感情でいること。そのままにしていると忘れる。それと病気になったかどうか事実を解ること。しかし、その目的本位になかなかなれません。どうしたらよいでしょうか?話は解るんですが、感情がついていきません。」

おそらく、この内科の先生は森田療法に通暁された方でしょうね。適切な助言だと思います。それでも「話は分かっても、感情がついていかない」と思われる方がいるのは、当然のことです。頭では理解できても、汚いという感情はいかんともし難いというのであれば,最初はそれで構わないと思うのです。では実際に汚いと思ったときに、その先生の助言どおり5秒間我慢してみましたか? そのとき汚いという感情はどうなりましたか? 不潔感は変わらず、手を洗ってしまったとしても,がっかりする必要はありません。大切なことは、気持ちで納得いかなくても、助言どおり行動してみたという事実です。それができたら,次第に我慢の時間を延ばし、5分間まで手洗いせずにおいてみましょう。5分間あれば、不快な感情を抱えながら、何か一つは建設的なことができます。たとえばざっと掃き掃除をしてみるといったことです。5分経ったらやはり手を洗ってしまった? 結構です。我慢の時間を10分に延ばし、次のこと、次のことと手を出してみてください。嫌悪感から手を洗いたいという、後ろ髪を引かれるような感じのまま先に進んでみるということです.自室に掃除機をかけ,ついでに欲張って他の部屋も掃除をしてみてはいかがでしょう。後ろ髪は引っ張られて抜けてしまいましたか? そうではないですね。10分後に手を洗ってしまった?それでも部屋がきれいになったのなら、やった甲斐があります。また実行してみましょう。

このように試行錯誤しながらどんどん行動していくうち、当初の嫌悪感をいつの間にか忘れていたということに,いつかは気づかれるでしょう。感情は頭ではなく、行動の後についてくるということです。
どうしても一人で実行することができなかったら? そのときは入院森田療法の相談に乗ります。強迫症状から脱出されていく方は、かならずこのようなプロセスをたどっていくものですから。
(中村 敬)

Dさん、ようこそこのホームページへいらっしゃいました。小学校の頃からお悩みでお辛いかと存じます。ここでの他の方の書き込みをご覧になられると衆前緊張や表情恐怖で悩まれているのはご自身だけでないとお気づきになられると存じます。

今まで衆前緊張や表情恐怖でお悩みになりつつ大学を出られ、サラリーマンとしてご勤務されているのはなんとか頑張られてきた証ですね。ただ衆前緊張や表情恐怖を排除しようとしてはいませんか?衆前で緊張したり表情恐怖がある裏側には、人前で緊張しないできちんとしていたい、あるいは全く引きつらないことを望んでいたりしないでしょうか。

森田療法では、このように衆前緊張や表情恐怖の背後に過大な生の欲望があると理解します。つまり衆前できちんとしていたい、あるいは全く引きつらないでいたいと強く思わぬ人は緊張も少ないわけです。ですから、衆前緊張をなくそうとせずにすることが第一です。次に衆前緊張があってもそのような状況を避けないことが大事です。避けるとますます症状は悪化してしまいます。ご自身の表情や緊張がどうであるかを尺度としないようにしましょう。そして発表の場面を避けずに恐る恐るでよいので必要なことを話していくようにしていきましょう。
(舘野 歩)

Xさんは薬に頼って生きるか、不安に耐えてやっていくか、で悩んでおられます。北西憲二先生がこのホームページの中の『薬物療法の捉え方』で詳しく述べておられますが、森田療法における薬物療法の位置づけについて、説明したいと思います。

森田先生の時代には薬物が原則として用いられなかった事もあり、「森田療法は薬を使わない治療だ」と考えていらっしゃる方もいると思います。しかし、今日、少なくとも医療機関では抗不安薬や抗うつ薬などを併用することがしばしばあります。

大切なのは薬を使うか否かということより、どのような位置づけで使用していくのか、という点です。患者さんも治療する方も「薬によって不安や症状を完全に除去される事」を目指すと、際限なく薬が増やされたり、頻繁に変更したり、いつまでたっても減量・中止ができないという状態に陥りやすいものです。 森田療法では「薬物療法は生活を立て直す為の補助手段」と捉えています。山を登る際に、道が険しい時に杖を使うことは誰でもあります。薬を使うことは山登りでいうところの「杖を使うこと」と同じと考えてもらうと良いと思います。杖だけあれば山が登れるわけではなく、やはり登るのは自分の力ですね。つまり、薬物はあくまで補助であり、生活を立て直すのは自分であるという事です。

ただ、もし、Xさんが「不安になった時に薬を使う」といったように頓服として薬を使用されているのであれば、それはあまりお勧めできません。というのは「不安になったから、薬を飲もう」というやり方をしていると「不安をなくそう、コントロールしよう」となりやすいのです。そうなってしまうと、悪循環に陥りやすいので、もし、抗不安薬を使用されるのであれば、一日の中で、「いつ飲む」というのを決めて使用された方がよいと思います。その中で、様々な場面で不安になった時には「不安に耐えてなすべきをなす」という姿勢で取り組んでいく事が不安とうまく付き合っていく、あるいは悪循環を断つコツです。
(谷井一夫)

Sさん、こんにちは。対人恐怖でお悩みのようですね。こうして心の体験フォーラムに勇気を出して相談を申し出たことはとても大きな一歩ですね。

「相手に変に思われたくない」という気持ちは人間共通の感情だと思います。決してsukaiさんだけの思いではありません。ですが、Sさんは「相手に変に思われたくない」という気持ちにとらわれるあまりに、ますます自分の顔の表情に神経が集中してしまっているようですね。大変、辛いですよね。こうした「相手に変に思われたくない」という気持ちの裏側には必ず「相手に良く思われたい」という気持ちがあるはずです。どうでしょうか?“より良く生きたいという希望(欲望)”があれば、“そうならなかったらどうしよう”という不安が必ず生じるものです。

このように希望(欲望)と不安はコインの表と裏の関係にあります。ではどうしたら良いのでしょうか?sukaiさんには健康な欲求“相手に良く思われたい”すなわち“人とより良い関係を築いていきたい”という気持ち(希望)が存在するのです。不安にとらわれるのではなく、この健康な欲求(希望)を育てていくことがとても大事になってきます。不安を消すことに躍起になって、不安を消そうとすればするほど不安は強くなってはいませんか。どうでしょう?この不安を消すことに躍起になっているエネルギーを健康な欲求(希望)を育てることに転換していけばよいのです。

しかしエネルギーを転換するといっても難しいですよね。こういう時には具体的に目標を作ることがとても大事になります。
例えば、“友達を作りたい、友達と仲良くなりたい、友達と一緒に遊びたい”など何でも良いのです。Sさんが思う素直な感情を大事にしてください。そして、その目的を果たすために必要な行動(話しかける、話を聞くなど)を避けずに踏み込んでいくことです。ここにはちょっとした勇気が必要になりますね。

しかし、症状を治すために勇気を出すのではなく、貴方の具体的な目標(希望)に向かってであれば少し踏み込んでみる勇気は出てこないでしょうか?こうして体験フォーラムに相談を持ちかける勇気をもっているSさんならきっと出来るはずです。1回で必ず上手くいくかどうかはわかりません。人間の人生は上手くいく時もあれば、上手くいかない時もある“山あり谷あり”なものです。決してあきらめずにコツコツと取り組んでいく地道さが大事になってきます。
(川上正憲)

Hさんが恋愛に悩んでいます。理想どおりにいかない恋愛とのギャップに自分や彼を責めてしまうとのことです。人を好きになるということは素敵なことですね。

しかし恋愛には相手がいて自分が思うようには行かないもので、いつの時代にも多くの人が恋愛に悩んできました。その「思うようにならない」ことが辛いところでもある一方、ドキドキしたりワクワクしたりするところでもあります。

素敵だと思う相手を前に不安や緊張は高まるものです。そして自分をよく見せようとします。その裏返しで、自分の駄目な部分や失敗を相手に受け入れてもらえないのではないか?と心配になるものです。つまりそのことはHさんが彼のことを大切に思っている思いから生じている恐怖といえるでしょう。

なるべくなら誰しも格好悪いところを見せたくないと思いますから、自分の全てをさらけ出すことに抵抗を感じます。それが、相手をもっと知りたい、自分自身を知ってもらいたいという気持ちから、弱い自分や格好悪いところも見せられたときに、お互いの理解は深まるのではないでしょうか。「あばたもえくぼ」と言いますね。hanaさんが欠点と思っているところでも彼にとっては素敵と思っているところかもしれません。

そしてそのような経験を通して自分が症状と呼んでいるものからも脱していくことができるようになっていくと思いますよ。
(矢野勝治)

Pさんは対人関係に悩みながら3ヶ月アルバイトを続け、受験勉強にも励んでおられるとのこと。「周りに馴染めず、仕事をするときも他人の思惑が気になってしまい、嫌われないように行動し、結局やるべきことをやらずじまい、焦ってしまうわでいつもミスをして怒られています。」と書き込んでおられます。

Kさんもまた、人に苦手意識を持っていて、仕事が続かなくて困っている、と書き込まれています。
対人関係は、人間が社会で生きる存在である以上必ず必要な、けれども難しいものですね。

人との関係を大切に思えばこそ、「よく思われたい」「認められたい」ということが切なる願いとなって、うまくいかないとKさんのように「人の中にいるとすごく疲れてしまいます。怒られるとかなりショックで、緊張して、辞めたくなります」とさえ感じてしまうもの。
そんなとき、Pさんが書いているように「人間関係をよくするのは諦めて、その代わりいまやるべきことに集中する」、そんな「いい意味での開き直り」も必要なときがあるでしょう。でも、「人間関係を良くすることをあきらめる」のは、果たしてできるものでしょうか。その答えはpxoさん自身が一番知っているはずです。

人との関わりを諦めることはできないけれど、イメージとしては、「対人関係を直接よくすることは一旦棚に上げておく」という感じでしょうか。人間関係を直接いじることはちょっとおいておいて、そのときに必要なことに向かうわけです。そして必要なことを通して人と関わるうち、自然と本当の意味で相手に必要なことも見えてくるはず。「どう思われているか気にしすぎて自分の仕事さえ満足にできなかったり・・」では、もったいないですものね。
「ひとりぼっちでもやれることがある」というPさんの言葉は「悩みを持った今の自分でもやれることがある」とちょっと修正しておきたいと思います。

さてPさんが書いているように神経質の人は生真面目なのに、焦ったり浮き足立ってしまってミスをしてしまうことが結構あるようです。「人にどう思われているか」に意識が行ってしまい、仕事の手元から注意が離れてしまうのですね。せっかく持っているきめ細かな力、「神経質の生かしどころ」をしっかり押さえて、生活をどんどん充実させていってくださいね。

森田先生も、燃えるような煩悶の中にこそ、生きる力、生の欲望を見出しています。 大いに悩み、迷いながらアルバイトに、受験勉強に向かってください。
(塩路理恵子)

Sさんは、これまで活発だったのが、卒業式のお別れ会で顔がひきつったことを機に、顔のこわばりを気にするようになったそうです。学校も行かれなくなり、かなり自信を失ってしまった今では、仕事をしたいと思うものの、予期不安から恐怖突入出来ない・・・と悩んでいました。

Sさんも自分自身について「人に良く思われたいとか・・・自意識過剰」と表現していますが、対人的なことに悩む方の大半は、人との関わりをとても求めているのです。しかしその分、相手から好かれたいとか、良く思われたいという欲求が非常に強いために、些細な失敗もしてはいけない、それは恥ずべきことととらえ、思い通りにならない自分にとらわれていってしまうと言えます。

Sさんも「普通にしようとすればするほどおかしくなった」と書いているように、人前でちゃんとしようと思えば思うほど、人の目に映る自分がどうであるか、あるいは期待通りの自分になっているかどうかに注意が向いてしまいます。そうなると、当初は『人と関わりたい』願望が強いがゆえに、相手の評価が気になったはずなのに、もう目の前にいる相手は二の次になってしまい、理想の自分との格闘になってしまう。そして、理想通りに出来ない自分ではダメ、と考えて、関わること自体をやめてしまうのです。これでは本末転倒ですね。

こうした悪循環から脱出するために、森田療法では“気分本位ではなく目的本位に"とか、“恐怖突入"といった姿勢を促します。Sさんは、何とか試みたいものの、どうしても恐怖突入出来ない・・・とおっしゃっているわけです。確かに「恐怖」に「突入する」と文字通り受け止めると、とても怖いですよね。当然、躊躇もすると思いますし、少しでも怖い思いをしないように・・・と、また自分を万全に整えようとしてしまうでしょう。

そこで、ちょっと見方を変えてみたらどうでしょうか。ここでいう「恐怖」とは、日頃、苦手と考えて避けている場面です。しかし、もともとはとても求めている場面でもあるのです。単に人との関わりが嫌いなのであれば、避けている自分に悩むこともないのですから。健康で前向きな欲求が、どうしてここまで恐怖になったのか?それは、そのあとの結果まで射程に入れてしまうからです。例えば、泳ぎたいと思うことと、泳げることは別ですよね。あるいは、金メダルを取りたいと思うことと、取れることも当然別の話です。しかし、神経症に悩む人たちは、「〜したい」と思うことに必ず思い通りの結果がついてくることを期待し、またそうでなければいけないと考えてしまいます。しかし、結果が保証されているものなど何もありません。だから、そこに踏み出すことが恐怖になるのです。

Sさんは「男性をへんに意識してしまうし、顔がこわばる」と悩んでいますが、異性を全く意識しない人は存在するでしょうか?関心があるから、意識もするし、良く思われたいと思うから、自分を高めようとする。他者の存在は成長のきっかけにもなるのです。もちろん、お互いを分かり合うためにはコミュニケーションも必要です。その過程では誤解や衝突もあるかもしれない。しかし、そうしたぶつかり合いからお互いを深く知ることが出来るのです。まず一歩踏み出すことが、人と関わり、分かり合える友人や恋人を見つけることに繋がるのではないでしょうか。

森田療法では、恐怖は欲求と表裏一体と考えます。恐怖に突入すると考えると、とてもハードルが高く思えてしまうかもしれませんが、その一歩が自分の望んでいた未来に繋がるととらえてみたらどうでしょう?恐怖を乗り越えるのではなく、希望に近づくために一歩踏み出してみるつもりで・・・。苦手な場面からいきなり挑戦する必要もありませんし、トントン拍子に進む必要もないのです。内心ドギマギしつつでも、とりあえず「やってみたいこと、手が届きそうなもの」から小さな一歩を踏み出すこと。それが、必ず新しい未来への一歩になるはずです。
(久保田幹子)

Aさんは、上司の方の視線が気になり、目を合わせるのが辛くなったとのこと。表情もこわばるようになり、それ以来相手に無視されたように感じて悩んでおられるのですね。

Aさんの症状は、視線(正視)恐怖および表情恐怖と呼ばれており、対人恐怖症状の中でも頻度の高い悩みです。誰しも他人の視線を意識したときは、多少の緊張を覚えるものです。特にそれが上司など目上の相手であれば、自分がどう見られているか気になるのも当然です。おそらくAさんは仕事熱心で、その上司からも好まれたい、高く評価されたいという願いが強いのでしょうね。それだけに、嫌われはしないか、マイナスの評価をされないかという不安も強く感じられるのではないでしょうか。

またことによると、「相手の目を見て話をしなくてはいけない」という「?すべき」の考えにいささかとらわれてはいないでしょうか。無理に相手の目を見ようと頑張れば、顔にも力が入ってしまいそうですね。
さらにAさんは、顔のこわばりを感じたということから、不機嫌そうな面構えになった(どうしてそうだと分かるのでしょう?)→相手は自分を嫌っているという思い込みに陥ってしまったようです。こうなると、先に結論ありきで、相手の態度のなかで不都合な部分をいつしか探し出すようにもなります。「会っても挨拶されなかった」とありますが、そもそもAさんはそのとき自分から相手に挨拶したのでしょうか?もしかすると上司はAさんに気づかなかったかも知れません。あるいは気づいていたにしても、Aさんがこわばった顔を見られないようにと顔を向けなければ、相手も挨拶しにくかったかもしれません。

緊張しないようにと努めれば努めるほど、かえって自分を意識して緊張がつのってしまいますし、緊張した姿を見せないようにとはからえばはからうほど、相手を遠ざけてしまうことになります。したがって大切なことは、緊張したまま、避けずに必要な会話をかわすこと、自分からはっきりと挨拶をするよう心がけていくことです。また会話の最中、ずっと相手の目を見ていることはかえって不自然ですし、目上の相手に対しては失礼にもなりかねません。相手の口元からネクタイの結び目のあたりに目を向け、時折目を見るくらいが自然な態度です。

これから森田療法の勉強を通して、上記のような心のからくりに気づくことができれば何よりだと思います。本を読むだけでなく、このフォーラムの多くの人たちのやり取りを見れば、Aさんにとって沢山のヒントがあると思います。
(中村 敬)

Pさん、孤立してしまうことでさぞかしお辛いと思います。そんな中でも息子の授業参観へ恐怖突入してこられたのはそれだけ息子さんを思い必要なことだからですよね?

森田療法で恐怖突入という言葉があります。もちろん、恐怖を避けるより突入した方がよいのですが、えてしてその際自分の症状が現れるか否かだけを基準に考えている方によく私はお会いします。森田先生はこのような時患者さんに対して「症状測定器」と言っています。つまり孤立するかしないかを基準にして色々な場面へせっかく頑張って行っても結果を同じように孤立したか否かで判断するとまたそこでがっかりするといった悪循環へ入っていってしまいます。「孤立している」と思う裏側にはやはり「人と交流していきたい」といった気持ちが強いのだと思います。

森田先生の著書「神経衰弱と強迫観念の根治法」に20歳の赤面恐怖患者を治療した記録があります。患者さんの「自分は事実、今一人の友人もなく、、、」。と言ったことに対し森田先生は「それは交際を求めてくる人さえも、自分がこれをすなおに受け入れないからである。人に負けるのがいやだからである。盲人がやたらに眼明きを邪推して、すね、いこじになるようなものである。自分が気の小さいことをありのままに打ち明ければ、真の友人として交りにくる人はいくらでもある。自分の本心が孤独を好むのではない。負け惜しみである。勝とうとあせるから負ける。負けるがままに捨て身になれば必ず勝つものです。」とコメントしています。

ご参考になればと思い森田先生の言葉を載せました。
先程「孤立している」と思う裏には「人と交流したい」という気持ちが大きいと書きました。例えば、周りの人皆と仲良くなりたいと思ったりはしていませんか?何も周り全員と仲良くならなくても自分と気の合う人がいればよいくらいの気持ちでよいと思います。

近い将来の親の葬儀でどうしたらよいか不安とありましたが、その際「堂々ときちんとしなければいけない」と思ってはいませんか?誰しも親の葬儀で気持ちを取り乱し皆の前で話す時にたどたどしくなったりすることはむしろ自然なのではないでしょうか?ここではあまり完全主義になりすぎず必要なことが言えればよいくらいの心構えでよろしいのではないでしょうか?
(舘野歩)