強迫神経症の部屋
「事上の鍛錬」 '10.12
周囲の人にどのように思われているか、自分の振る舞いがおかしくないか常に気にされさぞかし辛いことと存じます。 アメリカの精神医学診断基準DSM-IV-TRでは対人恐怖(社交不安障害)と強迫神経症(強迫性障害)とを分けて診断します。しかし森田先生は対人恐怖を強迫観念症の中に位置づけ、両者とも強迫的な心性を見出したことが卓見です。
「周囲の人にどう思われているか、自分の振る舞いがおかしくないか常に気にする」気持ちの裏には「周囲の人に良く思われたい気持ち」があるのではないでしょうか?これを森田先生は「生の欲望」と呼んでいます。生の欲望が強いのですが、そのエネルギーが症状へ向いてしまい(「とらわれて」しまい)、悪循環を起こしているのではないかと思います。 森田先生は「たとえば、赤面恐怖・吃音恐怖が、恥ずかしいことそのことが苦しいのではない。実は人前で自分が、立派でありたいのが、その目的である。もし恥ずかしいそのことばかりが苦しいならば、それは意志薄弱者であって、神経質の恐怖症、すなわち強迫観念ではないのである。」と述べています。
また森田先生は、「私たちの精神修養はけっして理論でもなければ、哲学でもない。あるいは道学者のいう理想主義による思想の矛盾をもとらない。また例えば静座による座禅の禅ではない。王陽明のいう『事上の鍛錬』でなくてはいけない。たとえば常住座臥、常に下腹部に力を入れるという腹式呼吸でもない。バケツを持ち運び、まきを割る場合に、いつも自由自在に、臍下丹田(下腹部)に力を入れたり抜いたり、虚々実々の変化に応ずることを会得しなければならない。」と述べています。ここでは日々の何気ない生活実践をしていくことの重要性を説いています。
Sさん、どうかご自身の「生の欲望」に従って色々目的に従って行動しチャレンジしてみましょう。
(舘野歩)
「原因探しよりも、今出来ること」 '10.11
Sさんは自分の思っていることを自分の言葉として発することができないことと赤面することが怖いということで悩んでいらっしゃいます。また、それらが、以前体型をからかわれたことと関係があるのかを気にされています。
体型をからかわれたことはSさんにとって、すごく辛かったことでしょう。また、それがきっかけで、人目を気にするようになってしまったのも無理がないかもしれません。しかし、それが現在の悩みの全ての原因とは言い切れないと思います。
確かに「自分がどんな風に見られているのか」を気にするようになったきっかけはからかわれたことなのでしょう。しかし、それから「思っていることを自分の言葉として発する事が出来ないことや赤面することが怖い」という状況になったのは、Sさんが「ちゃんとした人に見られたい」「変な人だと思われたくない」「赤面などせずに堂々としていたい」などの気持ちが強いがゆえに、自分の状態にとらわれてしまったのではないでしょうか。というのも、これらの気持ちが強いと、自分の発言が「ちゃんとしていたか」「うまく言えたか」「赤面していなかったか」ばかりに注意が向かってしまい、結局自分の状態や発言に注意が向かってしまって頭が真っ白になりがちだからです。本来、自分の気持ちを伝えたり、大切な事を伝えたりする場合は「相手にそれらの事が伝わる」事が目的です。つまり、伝えたいことが相手に伝わっていれば十分目的は果たしているのですが、こういった時に「ちゃんとした人に見られたい」という気持ちが強すぎる人は「緊張せずに、赤面せずに堂々と話せなくてはならない」とかくあるべしにとらわれている場合が多いものです。
からかわれた事はとても辛い事ですが、他人と過去は変えられないものです。Sさんも原因探しにエネルギーを注ぐのではなく、今出来ることからはじめてみてはいかがしょう。例えば、まずは、赤面しながらでも、ビクビクしながらでも、一生懸命相手に分かりやすく伝える、あるいは、相手の話を聞く(聴く)ことから始めてみてはいかがでしょうか。
(谷井一夫)
「努力即幸福」 '10.10
Vさん、Jさん、Mさん、MEさん、こんにちは。 皆さん、それぞれの境遇において悩み、奮闘されている様子が伝わってきます。人生はなかなか自分の思うようにいかないことが多いように思われます。こうした不条理ともいえる人生をどのように生きていったら良いのか?誰もが一度は悩み、立ち止まることがある局面だと思います。人によってはあまりの人生の困難さを前にして絶望の淵へと押しやられた方もいらっしゃることと思います。
森田正馬先生は「自然服従」「境遇に従順なれ」といった様々な言葉を用いて我々を導いてくださっていますね。やはり、こうした困難を目の前にしたときこそ、まずは自己自身の等身大の事実(体力、精神力、能力など)をしっかりと認識する必要がありましょう。そして次には自分の置かれている現実の事実をしっかりと見据えていくことが必要になりますね。しかし自己自身および外界の現実の事実をしっかりと認識することは意外に難しいように思われます。どうしても自分に不都合なことには眼をそむけたくなってしまうのが人間の心情のように思われます。しかし、こうした困難な場面であればこそ、しっかりと目の前の事実をしっかりと認識していきましょう。事実唯真ですね。そしてさらには、そうした等身大の自己自身に合わせて、コツコツと自己の目指す目標(生の欲望)に向かって取り組んでいくことが大事になります。何事も一瞬にして成し得ることはありません。長い時間、地道な努力を必要とするものです。
しかし、こうした努力の結果、目標に到達しない場合もあり得ます。結果が伴ってこなければ、努力する意味はなくなってしまうのでしょうか。そんなことはないと思います。まずは、本当に自分がその目標に向かって努力していきたいのか(自分はどうしていきたいのか?)を今一度、自己自身に問いかけてみましょう。そこでも変わらず自分が目指したいと思うのであれば、それは本物の生の欲望と言えましょう(何も大きな目標でなくても良いのです。どんな小さなことでも良いですから、「自分が〜したい」と思う具体的な内容が大事になります)。そして何事を行うにあたっても覚悟は必要になりましょう。覚悟とは真剣に取り組む(本気で取り組む)と同義と言えます。覚悟を決めたなら、あとはコツコツと地道な努力を続けていくのみです。同時にこうした道程は決して平坦ではなく山あり谷ありであることも認識しておくことも必要でしょう。
しかし、こうした深い覚悟の上の努力であっても実を結ばない場合もあり得ます。現在の世相は、以前にも増して結果重視の風潮が強いように思われます。結果が伴わなければ努力する意味はないのでしょうか。そんなことは決してないと思います。なぜなら結果が伴わなくても、皆さんには皆さん自身が真剣に覚悟を決めて取り組んだ一連の努力のプロセスが残っているのです。その真剣に取り組んだプロセスそのものが皆さん自身の貴重な唯一無二の人生航路を示しているのです。こうした結果のみに目を奪われのではなく、一連の努力のプロセスに価値を置くことは大事なのではないでしょうか。森田正馬先生は「人生の目的は努力である」とおっしゃっています。すなわち「努力即幸福」と論じられています。まさに努力するプロセスそのものが幸福と論じられているのです。さあ、皆さん自身の人生航路を一歩、一歩あせらずじっくりと歩んでいきましょう。
(川上正憲)
「信頼を得るとは」 '10.09
Yさん、こんにちは。新しい職場での生活に悪戦苦闘の様子がとても伝わってきます。さぞかし御苦労されているとお察しします。Yさんの文面を拝見すると、一番悩まれているのは、新しい職場の人々と「どう関わったらよいか」ということのようですね。それも仕事最中と休憩時間中での関わり方で特に気苦労が耐えないようです。
そんな様子から、私は、Yさんが職場に慣れることを急ぎすぎているように感じました。
もしかしたら、Yさんは、心のどこかで「自分は不器用な人間で、それを克服しなければ上手く人とやっていけない」という思いを強く持っているのではないでしょうか。もしそうだとしたら、そんな思いが、Yさんを、「スムーズ、スマートであらねば」という思いに駆り立てるのも当然だと思います。でもここで、Yさんには、是非「スムーズ」「スマート」にとらわれて、仕事を覚えるという本来の目的を見失わないで欲しいと思います。仕事上、必要であれば勇気を持って声かけしていくことを是非お勧めします。
というのも、他の人々は、Yさんのスムーズに会話が出来る姿に信頼を寄せるのではなく、仕事を覚える際、分からないことをきちんと聞く真摯な姿に信頼を寄せるからです。仕事の姿勢が評価され、周りから信頼されることは、Yさんに本当の意味での喜びと自信を与えてくれるはずです。さらに、信頼を得る上でもう一つ大切なのは、相手の話を良く聞くことだと思います。雑談中の間が苦手と感じている場合、大概「自分が話さねば」と焦り、周りのことに気が回っていないことがほとんどだったりします。Yさんの場合、まだ勤め始めて相手のことも良く分からないのが本当のところだと思います。だからこそ、「相手に自分のことを知ってもらおう」と力むより、「相手のことをよく知ろう」と思うことが大切です。ですから、ここでは聞き役に徹していきましょう。聞き役に徹していると、自然と話しやすい相手が見つかってきたりするものです。恐らく、Yさんにとって今が一番辛い時期かもしれません。でも、この時期を粘り抜いて、Yさんのお仕事が発展することを心より願っています。
(樋之口潤一郎)
「集中出来なくてもやってみる」 '10.08
Oさんがいろいろ気になる症状に困っています。 高校生のころは、足の手術や失恋のなか、本を読むにも文字が怖くて集中出来なくなり、その後は耳鳴りのような音、今はテレビで話している人や歌っている人の息継ぎが気になって集中出来ないなど、今は卒論の提出を前に次は何が気になってしまうのだろうと先々に不安を感じ集中出来ないとのことです。
元来神経質で不安がある人は、大変な時や頑張り時にこそ万全にしておこうと思いが強まるために、些細なことにもとらわれてやるべきことには目が向かなくなりがちです。症状が出た時や現在もその状態であると言えるのではないでしょうか。気になる症状はかたちを変えても何かしら絶えずあることから、常に症状探しをする状態になっていると言えるかもしれません。
薬物療法によってすべての人が改善するわけではなりません。Oさんも効果を感じなかったとのことで断薬しようと頑張っているとのことですが、一方で離脱症状なども気にされていますので、卒論の提出前の大変な時にやめようとするのではなく、現在副作用がなければ減薬は提出後に試みることにしてみてはいかがですか。
かかりつけの先生から言われた楽しいと思えることをして、症状から距離がとれて生活が広がれるようになればよいと思います。しかし、うまくいかないようであれば視点を変えてみてはいかがでしょうか。常に楽しことばかりをやることが出来るわけではありません。森田療法ではやるべきことに目を向けます。やる前は大変だと思ったり、併存する不安が辛いと思うなかでも実際やってみると、取り組むうちに気分は変化していくものです。気分同様に不安も変化していくことを経験出来たりします。目の前のやるべきことに力を注ぐことは継続的に出来ることであり、そのことは自分が目標とすることに近づくことだということにも気付かされます。
限られた時間を卒論の内容の充実に当てることがOさんの目の前のやるべきことだと思います。まずはしっかりと卒論を期限内に提出出来るよう頑張って下さい。
(矢野勝治)
「縁起恐怖と森田療法」 '10.07
Mさんは、縁起恐怖に悩まされている、と書き込んでいます。 たとえば仕事で新しいペンを使って仕事をし、ミスをしてしまったら、次の日はもうそのペンは使えません、とのこと。
「悪いことが起こらないように」「ミスなく完全な仕事がしたい」という気持ちが強いのですね。そこで「恐れていることの起こる可能性をゼロにする」ために、縁起が悪いと思う物を使うことや行動をすることを避けてしまっているのですね。
けれども、お気に入りの服を着ることができなかったり、決まった日には車に乗らない・・というのは、やりたいことが制限されてしまっている=望んでいるのと逆の結果になってしまっていないでしょうか。
不安や不確かさの中にいるのは、勇気もいることです。
けれども不安と付き合いつつ行動を広げることで、着実に自分の世界は広がっていきます。
車をぶつけたのでは、と不安になっても確かめに戻りたい気持ちをこらえて駐車場を離れ、後で何で確かめに戻らなかったのか後悔し、車をぶつけたのが気になり一日中仕事が手につかないこともあるとのこと。 音楽が流れている環境でも仕事をしていくように、気になることを「浮かべたまま」そのときなりに仕事に手を付けていきましょう。後悔する気持ちは起こってもよいのです。「気持をこらえてその場を離れることができた」という「事実」を大切に、認めていきましょう。
(塩路理恵子)
「すっきりするのはその時だけ」 '10.06
Iさんは「髪が耳にかかるとすぐに床屋に行きたくなります。1回行く度にお金もかかるし・・・。これは神経質体質とみたほうがいいのでしょうか?」と書き込まれています。
その後、Mさんのアドバイス(自分で器用にカットしている人もいる、職人さん以上に散髪を上手になっては・・・)を受けて、バリカンできれいに刈ったそうです。これでお金もかからないし、いいやと思われたそうですが、次は「家にいるだけで大量の汗が吹き出してきます。これは神経症と関係あるのでしょうか?」と質問をされています。共通しているのは、髪の毛や汗など、違和感を感じるとそれが気になって仕方がないという点ですね。まさに、注意を向ければ向けるほど感覚が敏感になるという精神交互作用と言えます。神経質性格の人は、完全主義的であるために、「納得したい」「すっきりしたい」という気持ちが強くなります。そして、もやもやした気持ちを「すぐに」解決しようとしがちです。髪の毛をすぐに切ろうと床屋に頻繁に通っていたIさんの対処もそれに該当するでしょう。しかし、すっきりするのはその時だけで、また次に気になることが出てくるわけです。つまり、解決出来たつもりでもそれは根本的な解決ではないのです。
森田先生は、「要するに、人生は、苦は苦であり楽は楽である。『柳は緑、花は紅』である。その『あるがまま』にあり、『自然に服従し、境遇に従順である』のが真の道である。憂鬱や絶望を面白くし、雨を晴天にし、柳を紅にしようとするのが不可能の努力であって、世の中に、これ以上の苦痛なことはない」と述べています。つまり、自分が納得するように、心地良いようにしたいのはやまやまだけれども、思い通りにならないのがまた事実であり、その嫌な気分も含めて事実を事実として認め、受けとめていくことが、とらわれから自由になる術であると伝えているのです。
Iさんの場合であれば、髪の毛は必ず伸びてくるものですし、暑ければ汗が出るのも自然な生理反応です。それ自体を止めることは出来ないのです。そうであるならば、その事実と付き合い、そこで出来ることをするのみです。髪の毛が伸びたらお金の許す範囲で床屋に行く、あるいは自分で切る、汗が出ればそれを拭く、といった具合です。それと同時に、色々なことが気になるのは、自分を万全の状態にしたい、納得のいく生活がしたいという気持ちの表れなのですから、その気持ちを行動に生かしていくのです。髪の毛や汗を気にして、それを何とかしようとしている時間や労力を、折角ならもっと他のことに使うということですね。その際には、(気になることがなかったとしたら)どんなことがしたいのか、どんな一日を過ごしたいのか、と自分に問いかけてみましょう。そして思いついたことから動き出してみるのです。最初はすっきりしなかったとしても、いつもと違う一日が過ごせたとしたら、その方がずっとすっきりした後味であることをきっと体験されると思います。
(久保田幹子)
「口臭を気にする若者たち」 '10.05
Aさんは書きました。「電車、バス、エレベーターなど人の密集している所や会話をしていると自分の口臭がにおっているんではないかと思い緊張して息ができなくなります」。じっと息をこらえていらっしゃるなら、より一層苦しいことと拝察します。
Aさんのように口臭に関する神経症に悩んでいる方は少なくありません。このような症状は口臭恐怖と呼ばれ、対人恐怖症状の一つと考えられていますが、特に最近は潜在的にそのような悩みを抱えている若者が増えているように感じます。ことによると口臭除去を謳ったガムのCMもこうした風潮に一役買っているのかも知れません。口臭に周囲の人が逃げて行き、ガムを食べた途端に美しい女性が惹き寄せられるという、例の漫画チックなCMです。口臭に限らず、汗のにおい(かつて汗臭さは男らしさの象徴でしたが)にも、とらわれる人が数多くいます。こうした臭いへのとらわれは、結局のところ人にいやな思いをさせ嫌われたくないという心性であり、さらにいえば人に好かれたい、よく思われたいという欲求の裏返しです。それゆえ、このような自然な欲求が強まる青年期に、臭いへのとらわれが生じやすいのでしょう。またにおいは慣れが起こりやすく自分では気づきにくいという性質も、知らないうちに人に不快感を与えているのではないかという対人恐怖的不安に結びつきやすい点かも知れませんね。
たいてい口臭恐怖の方は、実際に人一倍口臭がきついわけではありません。ただし、ごく稀に口内炎など口腔内の病気から口臭が生じる場合があるので、もしもまだ一度も受診されていないようなら、メンタルな悩みに理解のある歯科医の診察を受けられてはいかがでしょう。体験フォーラムを主催する岡本財団でも,そのような先生を紹介してくれるかも知れません。受診して口腔内に特別の異常がないようでしたら、思い切ってマスクをはずしてみましょう.そして人込みを避けず、人中でも息をこらえずに過ごしてみてください。そうすると、一時的には口臭についての不安が増すでしょうね。でも不安はそのままにして活動的な生活を送り、人と関わる場面にも積極的に踏み込んでいくことです。実際に人との関わりが増えるにつれ、ガムのCMのように口臭の如何で人間関係が決定されるわけではないという当たり前の事実がよく見えてくるはずです。
もしも不安が強く,なかなか人中に行かれないようでしたら、同様の神経症を抱えた当事者の集まりである「生活の発見会」に出席されてみるのもよい方法です。
(中村敬)
「神経質の長所と短所」 '10.04
Cさん、御自身の性格のことで悩まれ辛そうですね。そんな中この体験フォーラムへようこそいらっしゃいました。
現在御自身の性格のマイナス面ばかりに注意が向いてしまい、せっかくの長所を見失っているような気が致します。どの性格にも見方を変えれば良くとれますし悪くとれば悪くとらえられると思います。
森田先生は「神経衰弱と強迫観念の根治法(白揚社)」の中で神経質性素質を他の気質と比較をしています。「神経質はちょうど金持ちが金に苦労をするように、持てあました理性に煩わされているものであるから、(中略)日常生活の細かいことにも気がつくのである。これが神経質の長所である。この素質をどこまでも発揮していけばよい。決してその気質を没収すべきではない。」と記しています。
さらに「神経質の長所と短所」という節で、「神経質のただわれ独り苦しいという心持ちは、ひとたびその心境を転回して、自己の素質の長所に覚醒したときに、これがそのまま唯我独尊となるのである。この心は、すなわち人を恨み、自分をかこつ卑屈の心ではない。自己の全力を発揮し、人をあわれみ、周囲を済度する力である。」と森田先生は結んでいます。森田先生が述べられているように、御自身の性格を大らかな別の性格へ変えようとするのでなく、今の性格を現実の中でよりよく生かしていく方向に使うようにしていきましょう。
(舘野歩)
「今出来る事」 '10.03
Fさんは不潔恐怖で長い期間悩んでいらっしゃいます。意を決し病院を受診され、薬を処方されるも薬には抵抗があるようですね。森田療法における薬物療法の捉え方は北西憲二先生がこのホームページの中の『薬物療法の捉え方』で詳しく述べておられます。また、私も以前「森田療法における薬物療法の位置づけについて」説明させていただいたので、薬物療法についてはそれらを参考にされてみてくださいね。
さて、Fさんは病院を受診されて、薬も飲んでいないのに、病院に行った日は少し気持ちが楽になったというちょっと不思議な体験をされました。実はこれはとても大切な体験だと思います。もしかしたら、Fさんは不潔恐怖に悩んでいた4年間、症状から生活リズムが崩れてしまったり、外に出たり人と話をしたりする機会が少なくなっていたのではないでしょうか。そのような生活をされていたのであれば、視野が狭くなり、よけいに症状が気になってしまいがちなのです。
そのような悪循環を断つ為には、症状を無くそうとする戦いを一旦やめて、「今出来る事」に目を向ける事が大切です。「症状があるから、何も出来ない」と決めつけてしまわずに、症状があっても病院を受診することが出来たように、「今」せめて出来る事があるはずです。今、Fさんに出来る事はどんな事でしょうか。不摂生をされているのであれば、まずは生活リズムを整えたり、生活習慣を見直したりしてみてはいかがでしょう。受診した日に気分が楽になった体験をされたFさんならば、効果があると思います。是非とも頑張ってみて下さい。
(谷井一夫)
「不安に対する態度の転換について」 '10.02
Xさん、こんにちは。強迫観念との付き合いに悩まれているようですね。ここでは強迫観念との付き合い方の要点を簡単にご説明しましょう。
まず第一に森田療法の基本的な視点の1つである不安(強迫観念)に対する考え方が大事になります。おさらいをしましょう。我々人間が「より良く生きたい」という人生への希望、願望、欲望を抱けば抱くほど、「そうならなかったらどうしよう」という不安が必ず生じるものです。このことは人間の欲望(生の欲望)があるところに、不安(死の恐怖)は当然生じ得る、という森田療法の基本的概念が提示されています。そうした考えに立脚するからこそ、森田療法では、こうした当然生じるべくして生じている「不安」を我々人間にとっての除去すべき異物(対象)とは認識せずに、我々人間に希望があるからこその自己自身の一部分であると考えます。よって「不安」を除去する姿勢ではなく、「不安」を自己自身の一部分として「かかえる」という方向性が提示されます。
ここに森田療法における不安に対する態度の転換、つまりは「不安を除去する姿勢」→「不安をかかえていく姿勢」への転換という基本的姿勢が明示されます。さて、こうした不安(強迫観念)をどうように抱えていったらよいのでしょうか。成田善弘先生は「青い空に白い雲が浮かぶように、不安を心の一隅に浮かべておきましょう」とおしゃっています。是非、実践していきましょう。空に浮かんでいる雲のように浮かべたままにして、やりくりしないことです。そして不安(強迫観念)を心に浮かべたままにして、やりくりしない状態で(強迫観念との格闘をやめる)、目の前の次の行動にスッと動いていけばよいのです。こうした目の前の次の行動にスッと動いていくうちに、気がつけば先ほどまでの不安(強迫観念)はどこかにいってしまっているはずです(気になっても最初ほどの強度はないはずです)。
人間の感情は、いつまでも同じ強さでないことは感情の法則(森田正馬先生)でご存じですよね。ですから、不安(強迫観念)も時間が経過すれば必ず、その強度は少しずつであっても弱くなっていくのです。さあ、以上を念頭に、どんどん不安(強迫観念)があるなしに関わらず、取り組むべきこと、取り組みたいことには手をスッと出していきましょう。不安(強迫観念)のあるなしが問題なのではなく、不安(強迫観念)がある中で、何をなし得ようとしたか(人生の目的)が大事になってくるのです。これはとりもなおさず、自己自身の一部分である不安を抱えながらの人生をより豊かにする姿勢と言えましょう。
(川上正憲)
「それでよい自分の再発見」 '10.01
BOさんが対人場面での緊張に悩まされています。幼い頃から引越しが多く、よそ者として扱われてきたりいじめにも遭ったりしたとのことで、大変な思いをされてきたことと思います。
森田療法では、対人恐怖の人は(社交的でないと受け入れられない)や(人前で弱味を見せられない)という思いがあり、周囲にどう思われるかという不安から自分の振る舞いが気になり、その結果更なる不安や恐怖や緊張も高まると考えます。時には、自分の存在を否定されていると思い込み、自信を失っていく方も見受けられます。BOさんは、緊張のため頭が真っ白になり仕事が覚えられず、結局辞めざるを得なかったとのことです。
対人恐怖の治療は、緊張して恥ずかしい自分を見せまいとするのでなく、対人場面で緊張しても何とかやっていきながら、それでよい自分を再発見することです。そのためには考え方の違う他人との距離感をつかみ関係をつくっていく試みが必要になってきます。自分を主張して人との違いを表現すると相手との関係が壊れてしまうと思う方も多いと思います。しかし、率直に話し合うことでむしろ関係は深まっていくものなので、社会活動を通して人と関わっていくことが大事になってきます。人とのぶつかりも生じますが、そのなかで緊張するか否かではなく、人にどう思われるかでなく、避けることなくやっていくことです。そのことが本来の自分がやりたかったことにつながると改めて気付かされると思います。
(矢野勝治)