強迫神経症の部屋

Kさんは、元来まじめで理想が高く、あるべき姿にこだわってしまうためにご主人との関係がギクシャクしてしまい、そうしてしまう自分にまた落ち込んでしまうとのことでした。ご主人は“女性やお金に対していい加減なところがあり”夫婦喧嘩が多く、寄り添うことが出来ていない、信頼したいけれど出来ない自分に苦しんでいる、と書かれています。
しかし、Kさんは今の苦しみの原因に多少気づいておられるようにも思います。まさに、「あるべき姿にこだわってしまう」という点です。ご主人に対して不満があり、信頼できないとのことでしたが、逆にどのようなご主人であれば信頼出来るのでしょう?あるいは、どのようなご主人を期待されているのでしょう?
真面目なKさんにとっては、ご主人のいい加減なところは理解の範囲を超えるのかもしれません。また、ご主人が家事を手伝ってくれたり、好みの本を借りてきてくれるというのも、Kさんが期待するものとは多少ずれているのかもしれません。しかし、それがまたご主人自身でもあるのではないでしょうか。

私達は、誰しも理想を持っています。それは自分自身にだけでなく、相手に対してもです。しかし、なかなか理想通りにならないのもまた事実なのです。理想に近づきたい、そうであって欲しいという願いが強ければ強いほど、理想とのズレは受け入れ難くなり、苛立ちや苦悩を感じてしまうと言えるでしょう。
Kさんの場合も、ご主人と結婚した頃にはもう少し違う面にも目が向いていたのかもしれませんが、期待していたものと違うという落胆が蓄積して、今のような心境に至ったのかもしれませんね。

「家族にやさしく接したい」というタイトルは、Kさんの正直な気持ちであり、また願いなのでしょう。そうであるならば、まずはご主人の性格や行動を、自分の理想を基準にするのではなく、ありのままに観察してみましょう。そして、理想と異なる部分があったとしたら、それが何とかなること(変えられるもの)なのか、あるいはすぐにはどうにもできないことなのか、分けてみることです。これは、自分に出来ることと出来ないことを分ける試みでもあります。自分に出来ることは、伝え方を工夫してみる、話し合ってみる、などですが、その結果相手が変わるかどうかは相手次第であり、自分にはどうにも出来ないことなのです。これは自分自身の気持ちについても同様に言えることです。つまり、ご主人のことを信頼出来ないという気持ちもすぐに思い通りには出来ないのであり、しばらく時間が必要ということです。
すぐに変えられないものと格闘するのではなく、ありのままの事実にまずは目を向け、出来ること、変えられることを探り、力を注いでみましょう。すぐに「優しく」出来なくても、家族を大切に思う気持ちをKさんが表現することは出来るはずです。自分に出来ることはやっている・・・と思うならば、少なくとも自分に苛立って、家族にあたってしまうという悪循環は緩和されるでしょうし、そうなれば家族との関係も少しずつ変化していくのではないでしょうか。
(久保田幹子)

「懺悔と復活☆キラリン」と題したXさんの体験談はとても印象深かったので、コメントさせていただくことにします。 Xさんは森田療法を通して「神経症を」を受け入れることができるようになり、自分が強くなったと自負されていたそうです。そして、今まで言えなかったことをどんどん言ってやる、ちょっとくらい人を傷つけても、言いたいことは言わなきゃ・・・という態度でいたところ、ご主人の「以前のあなたはそんな人じゃなかった・・・」という一言でハッとご自分の慢心に気づかれたということです。そしてXさんは書かれています。「相手の気持ちを考えない人間になど、やっぱりなりたくありません。・・・ 危うく、キラキラ光る「ステキな神経質」を失うところでした」と。

Xさんのように、「自分が強くなった」という自我感情の高まりは、神経症からの回復の一時期に起こりがちな心理のようです。例えば対人恐怖症の人が、症状が軽減してくると、劣等感の背後に隠れていた優越欲がストレートに顔を出して、とても自己主張的になり、時として人に「図々しさ」を感じさせてしまうような現象がそれに当たります。このような現象は回復のある時期には当然の心理かも知れません。けれどもまだこの段階では本人の関心はもっぱら自分自身に向かっていて、周囲の人の気持ちを斟酌することが二の次、三の次になっています。まだ自分本位の見方から脱していないのです。ですから、この段階で止まってしまうと、いわゆる「天狗禅」に陥ってしまうこともなきにしもあらず、なのです。

幸いなことに、そのような心理はほとんどの場合そう長くは続かず、周囲との軋轢などが引き起こされることによって、「自分は強くなった」というような自信が揺らぎ始めます。肝心なのはそこからなのです。中には再び元の劣等感にとらわれてしまう人もいないわけではありません。けれどもXさんがご主人の言葉に素直に耳を傾け、ご自分の独りよがりに気づかれたように、周囲の人々もまた、時には傷つくことのある血の通った存在であることに思い至ることができたなら、その人は劣等感⇔優越欲の枠の外に出ていくことができるようになるのではないでしょうか。そのような気づきは自己本位から脱する心の成長を意味するものだと思います。

新福先生という齢百歳に近い大先輩は次のように記しています。「森田療法が真の自分自身を見出し、発現させるものならば、それは必然的に愛に向かうのではなかろうか」。 相手の気持ちに心を配り、キラキラ光る「ステキな神経質」を失わないようにしようとしているXさんは、本当の意味で神経症克服の道行きを歩まれているのだろうと思うのです。
(中村敬)

YUさんは「会社の電話を取る際にすぐに言葉が出ない」という事で悩んでいらっしゃいます。また、その事で焦ってしまったり、また同じ事をしてしまうのではという予期不安もあるようです。しかし、他の場面であったり、会社で自分一人であったりすると結構スムーズに対応が出来るようですね。

元々、誰でも電話の相手が誰だか分からなかったり、失礼があってはいけないような相手であったりすれば、電話対応は多少なりとも緊張するものです。それが、特に仕事であれば「失敗してはいけない」と考えて、より身構えるものです。身構えればますます緊張するし、そうなると頭も真っ白になりやすくなり、言葉が出にくくなるのでしょう。さらにYUさんの場合は職場で1人の方が大丈夫という所もありますね。これは「自分が職場の人にどう見られているのか」が気になっているのではないでしょうか。「電話の相手にちゃんと対応しなければならない」という気持ちと「職場の人にちゃんと対応していると思われたい」という気持ちの両方が不安・緊張を強め、言葉が出にくくなっているのではないでしょうか。

不安の裏側には必ず欲望(「こうしたい、こうなりたい」という欲求)があるものです。YUさんの「ちゃんとしていたい」という欲求が強くなったからこそ、不安・緊張も強くなったのでしょう。欲望の裏返しが不安なので、不安・緊張だけを無くそうとする事は出来ないものです。その不安・緊張を無くそうとする所にエネルギーを注げば注ぐほど、不安・緊張は強くなってしまうものです。まずは、緊張しながら、相手の話を良く聞く所にエネルギーを注ぎましょう。その時、YUさんが注意を向ける所は「自分がすぐに言葉が出るか」あるいは「緊張しているかどうか」ではなく、「相手は何を伝えようとしているか」です。不安・緊張(言葉の出にくさ)を無くそうとする悪循環が断てれば、元のようにちゃんと対応出来るはずです。是非とも頑張ってくださいね。
(谷井一夫)

Mさん、こんにちは。受験勉強に勤しむ毎日のようですね。幾つかの文章を拝見しますと、再受験をされるようですね。こうした再受験への道に至る過程は決して平坦なものではなかったことと思います。人間には欲望が存在する。森田療法では欲望の是認に特徴があると言われます。森田先生は人間に内在する「生の欲望」に則って地道に努力を続けていくことを力強く説いていらっしゃいます。Mさんが様々な苦悩の末に再受験の道を選ばれたのでしたら、是非とも地道にコツコツと勉強を続けていっていただきたいと思います。受験勉強に一秒の無駄もなく取り組みたいと思えば、ちょっとした雑念があっても「絶対にあってはならない」と強く排除したい気持ちが生まれるのもうなずけます。

しかし、ここで注意をしなければならないのは何事も完璧を求めすぎると、そこには無理が生じるということです。何事も一生懸命であることはとても大事なことです。しかし全てを完璧にすることはまず無理と言って良いでしょう。全くの雑念もなく、澄み切った頭で勉強に集中する。確かにこうした勉強が出来ればそれはとてもすばらしいことです。しかし、実際は雑念が生じてなかなか勉強がすすまないことや、体調が思わしくなくて一向に勉強がすすまないこともあるのが「現実の事実」であると思います。この「現実の事実」を、御自分の理想に無理にもっていこう(思想の矛盾)と思ってもそこに生じるのは、思うにまかせないイライラ感(焦燥感)でありましょう。人間の人生、なかなか思うにまかせないのが事実ではないでしょうか。

森田先生は何よりも現実の事実をしっかりと認識することをことあるごとに説いていらっしゃいます。一切の思惑、先入観を排して、目の前の事実に基づいて地道に努力することを説いていらっしゃいます。ですから、「なかなか思うように受験勉強がすすまない」という事実のなかで、その事実をしっかりと認識し、そこでさらに「地道に努力することが人生である」と森田先生は説いていらっしゃるのです(努力即幸福)。そうした努力の結果、希望の合格が得られれば何よりですね。しかし、そうした合格が得られない場合も当然あり得ます。当座、先の合格、不合格にとらわれることなく目前の勉強に1日1日努力を重ねていけば良いのです。しかし、そうした努力の結果、不合格であった場合、これまでの努力は無駄になるのでしょうか。そんなことはありません。昨今は人生を結果のみで判断しようとする風潮が強くありますが、人生は1日1日のプロセスの集合体であります。努力するプロセスそのものが人生です。ですから、尚のこと決して後悔することのないように努力をしていきたいものです。

しかし、再度になりますが、人間には限界があります。人間の存在は有限です。無限でありたいという希望はありますが、有限を認識することが大事なことのように思われます。人間の体力、精神力、知力にはそれぞれ限界があります。この限界を認識し(等身大の自己の体力、精神力、知力を認識して)コツコツと努力していくことが求められます。人間の有限性を認識しつつ、無限の努力を続けていくことを意味します。しかし何事も過剰な取り組みになるとバランスを崩します。森田先生は努力することと同時に、調和(バランス)の観点を大事にするようにおっしゃっています。しかし、とても難しいことですね。継続的な努力、そして調和の観点。森田先生は人間存在を「希望の存在」と認識していらっしゃったように思います。とても、とても温かい目で人間の存在を考えていらっしゃったのだと思います。森田療法の本を読みますと、そこには可能性(希望)を必ず感じることができます。是非とも、この豊饒な森田療法のエッセンスを感じながら、のびのびと勉強に励んでください。
(川上正憲)

Pさんが「気にしすぎる性格」「考えすぎる性格」「気をつかいすぎる性格」や自分の完全主義で「とことんまでやらないと気が済まない性格」に悩んでいます。

仕事が終わってからも仕事中の場面のやり取りを後悔するとのことです。現在は故郷を離れた新しい赴任先でまだ友人もいらっしゃらないとのことですので、いつもより(うまくやっていきたい)(よく思われたい)(認められたい)という思いが強いのではないかと思います。しかし、人とうまく付き合おうと思えば思うほどそれにとらわれるものです。すると本来の自然な心の動きが失われて細部に目が行ってしまい、結果として緊張してぎこちなくなってしまいます。後になってもその時の自分の発言や相手の様子は気になると思いますが、まずは今やるべきこと、本来の目的である仕事にエネルギーを注ぐことにしましょう。必要なことを通して人と関わっていくうちに相手にとって必要なことも見えてきます。そのことは(「気を遣いすぎることでむしろ相手を不快にさせてしまっているのではないか」という不安ではなく)「人に気持ち良くいて欲しい」というPさんの配慮を生かせます。

完全主義者と書かれていますが、すべてが完全にやっていくことなど出来るものではありません。思うがままにしようとすればするほど苦しくなり、行き詰るものなのです。自分の人生をよくするためにも、少しずつ焦らずに御自分なりに森田療法を消化し実行していって下さい。
(矢野勝治)

こんにちは、Cさん。神経症を患われて15年、様々な強迫症状に悩まされてこられたようですね。しかし、この間も働かれていたのですから、その努力は並々ならぬものであったと思います。そしてCさんは社会保険労務士の資格を手にされました。これこそ、地道に取り組んだCさんの努力の結晶なのだと思います。しかし、Cさんは社労士になられても苦しさにかられ、「やりがい」の無い現状を嘆いているように見うけられます。

この場合Cさんにとって「やりがい」とはどんなものを指すでしょうか? 充実感でしょうか? 自信でしょうか? それとも取り組んだだけの満足感でしょうか? 一言で言い表すのは難しいかもしれませんが、Cさんにとって「やりがい」が、「紊得の行く何か」であることには間違いないように思います。もしかしたら、Cさんは、「紊得のある何か」を求め、「やりがい」を追求してきたのかもしれません。しかし、強迫症状の確認がそうであるように、「やりがい」もまた紊得ばかりを求めてしまうと、却って心配や不安ばかりを募らせてしまうものです。「やりがい」は、「紊得いくまで頑張りぬく」という姿勢だけでは得られないのだと思います。むしろ、「やりがい」を求める上で、多少紊得が行かなくても、そのことから視点を転換し、次に物事を進めていく潔さが必要になってくると思います。物事を進めていく中で、様々な困難や苦労もあるかもしれません。

しかし、それらの経験を経る中で、色々な対処を学び、それが生きる知恵になってくるのだと思います。「やりがい」はその知恵が積み重なる中で、徐々に作り出されていくのではないかと思います。そして、Cさんにとって、今後ゆとりある生活を心がけることも、「やりがい」を育てる上でとても大切です。ゆとりを無くし精神が緊迫してくると、余計に1つのことにとらわれがちになります。仕事以外の時間は楽しくすごせていますか? 睡眠は十分取れていますか? 仕事以外の生活にも目が向けられるようになると、意外にも仕事の効率がはかどったりするものです。今すぐには得られなくとも、様々経験を通して「やりがい」が養われることを心から願っています。是非頑張ってください。
(樋之口潤一郎)

Nさんは対人恐怖で社会から遠ざかり、「人とうまく交われないのは自分が劣っているからだろうか」と苦しい胸の内を書き込んでいます。

「不安の裏には生の欲望がある」という森田療法の基本的な考え方がありますね。 Nさんも人一倍「人に認められたい」「人とうまく交わりたい」という気持ちがあるのだと推察されます。つまり、劣っているのではなく、求める気持ちが強いのだと言うことができそうです。「強くなりたい」と明確に書いてもおられます。 だからこそ、社会から遠ざかっていることに平気ではいられず、葛藤を感じるわけです。
5、6年も掛けて資格を取得されたとのこと。そうした粘り強さはやはり神経質の強みだと思います。
ここで気をつけなければならないのが、「強くなる」ことが「虚勢を張る」とか「弱みを見せない」と同義ではないということです。

森田先生は折々で「なりきる」ということを書いていますが、その一つが「弱さになりきる」ということです。それは「人前でどんな態度をとったらいいかという工夫の尽き果てたとき」で、そうしたときに初めて突破するということがあるのだと説いておられます。
「弱さになりきる」ということは等身大の自分を受け入れそれを出発点にしていくことでもあります。
今のあるがままの自分を出発点に、一歩ずつ「自分は何を求めているか」に向かって下さい。
(塩路理恵子)

このところ、対人関係で悩まれている方の書き込みが多いようです。Rさんは「もっと気楽に人と接したいのです」、Nさんは「人と自然に接したい」と記しており、Mさんも対人恐怖・ひきこもり・現実感の無さに悩んでおられます。

皆さんに共通するのは、本当は人と関わりたいという切なる願いでしょう。しかしここでポイントになるのが、Rさんの「気楽に」や、Nさんの「自然に」という言葉ではないでしょうか。気楽に接したい、あるいは自然に振舞いたいと思えば思うほど、逆に緊張したり上自然になってしまう。何が悪いのか、どこに力を注げばいいのか、もともと人を拒絶しているわけではないだけに、途方に暮れる思いなのではないでしょうか。

ではどうしてそのようになってしまうのでしょう?Rさんも、Nさんも「変な人と思われるのではないか」「普通かどうかにとらわれる」と記していました。これらは、対人関係といっても、そこでの自分の評価や自分の姿・態度に対する心配・悩みと言い換えることが出来ます。同じように対人関係に悩むMさんは「どうすれば周りに褒められるか、受け入れられるかと人の思惑に左右されてきました」と振り返っていました。こうしてみると、人と関わりながらも、実は目の前の相手ではなく、他者の目に映る自分が万全かどうかに意識が向いているようです。これだと鏡に映る自分に悩み、実際の相手に注意は向けられていないことになりますから、おのずと会話はギクシャクしてきてしまいますね。

人から好かれたい、人前ではきちんとしていたいと願う気持ちは誰しも持っているものです。とはいえ、相手によって受けとめ方も違ったり、好き嫌いも人それぞれで、シナリオ通りにいかないのが人間関係とも言えます。「ちゃんと!」と意気込むあまり、自分を整えることばかりにエネルギーを注いでしまうと、独り相撲になってしまいます。せっかく関わりたいという気持ちがあるのですから、まず『相手』に関心を向けてみたらどうでしょう?相手がどんな話をしているのか、どんなことに関心を持っているのか、何を自分に伝えようとしているのかなどに注意を向けながら、『聞くこと』に専念してみるのも一つです。スマートに出来なくても構いません。ちょっとトンチンカンな反応をしてしまったとしても、それを取り繕おうとするよりは、そのまま出してしまった方がご愛嬌ということもあります。とりあえず、出来る範囲で、相手に関わりたいという気持ちを態度に示してみたらどうでしょう。シンプルに言えば、相手の思惑や、表情・態度など自分の思い通りに出来ないことや、答えがわからないものを物差しにするのではなく、自分なりに出来ることを積み重ねていくということです。具体的には、相手の話をしっかり聞き、理解すること、あるいは相手がわかりやすいような表現を考えて伝える・・などです。これらは、“自分のため”ではなく、“相手のため”の関わりであり、相手のことを考えた関わりと言えます。こうした誠実な関わりが、結局のところ相手の信頼や理解を得ることに繋がるのです。
(久保田幹子)

Sさんは、「あがり症で声が出なくなる事を人にバレるのが怖いです」と投稿されました。Sさんは「あがり症で声が出なくなる」ことと「それが人に知られることが怖い」という二重の苦しみをお持ちなのですね。ひとつひとつ考えてみることにしましょう。

先ず「声が出なくなる」ことについて。人前で緊張することを苦にしている人は米国の大規模な調査では一般の人の3~13%に上ると報告されています。なかでも人前で何か発言する時が特に苦痛だという方が目立って多いようです。一般に緊張するような場面で発言するときは、しばしば声が震えたり、かすれたり、あるいは喉がつまるような感じで声が出にくかったりすることがあります。私にもそのような経験は何度かあります。けれども対人緊張から声がまったく出なくなるということはふつうありません。むしろSさんの場合、「自分のあがり症が人に知られることが怖い」ということにより多くの問題が存していると思うのです。Sさんは声が出にくくなることを非常に恥じていて、人にも打ち明けないし、ひとたびそのようなことがあると仕事も辞めてしまうということでした。それだけ恥の意識が強いため、おそらくは発言の際に声が出にくくなると、発言を切り上げてしまう、つまり「声を出そうとすることをやめてしまう」ことが実際ではないでしょうか? このようにして恥かしい思いをするかもしれない場面を避けてしまうと、また次に発言するような場面ではさらに予期不安がつのって、一層対人緊張を強く自覚することになります。悪循環が生じていくのです。

ではいったいどうしたらいいのでしょう。Sさんには、これからこのフォーラムなどを通じて森田療法の勉強をしていただきたいと思います。詳述は避けますが、ひとつだけアドバイスさせていただくとすれば、結局のところ発言の良し悪しは、滑らかに話したかどうかではなく、どのような内容が語られたかにかかっているということです。たとえ声がかすれ、とぎれとぎれになったとしても、よく考えられ準備された内容であれば、人は聞く耳を持つはずです。Sさんは就活中でしたね。面接で悩みを正直に話した方がいいかどうかという御質問にはすでにMaさんが適切な助言をされています。蛇足になるかも知れませんが、面接官はあまりにもリラックスしている応募者には、真剣に面接に臨んでいるのか疑問を持つものだということをお伝えしておきます。また緊張を避けて話をすぐ切り上げてしまえば、なんだか投げやりな印象を与えてしまいそうです。それよりは、大いに緊張し声がかすれても、この会社にぜひ入りたいという気持ちを努めて言葉にして伝えていくことです。そのような熱意はおのずと伝わるものですから。
(中村敬)