強迫神経症の部屋

Mさんは6年前にパニック発作に見舞われてから、不安と恐怖で以前のような幸福感を得られずに過ごしている気がするとのことです。パニック発作が起きて以降、自分の世界がすごく変わってしまったようなのでしょうか。今も発作はあるのでしょうか。

パニック発作はこれまでの生き方に無理が生じた時や、負担に限界が来て起こることが多いと言われています。身体からのSOSサインでもあるわけですね。なので、Mさんがパニック発作を最初に起こされたのはどんな状況だったのかが気になります。幸せではあったけれど、色々忙しかったり、大変な時期でもあられたのかな、など。パニック発作が起きた前後にどんなストレスが積み重なっていたのか、何がストレスだったのか。自分の強迫観念や気質とパニック発作の発症に繋がりを見出されていっておられるようなので、今その探索をされていっている最中かもしれませんね。そういった点を理解し、パニック発作を起こすものの正体をつかめるようになると、自分と不安との距離を取りやすくなり、パニック発作を起こさずに対応できるようになっていくはずです。

強迫観念や強迫性障害と書かれているのがどのような内容のものなのかはわかりませんが、強迫性障害の傾向があるとすると、3人のお子さんの育児でただでさえ忙しい中なのにもかかわらず、不安への対応にエネルギーを使うことが多く、自分で理解している以上に負担が増えていた可能性もあるかもしれません。

ご質問の日記は自分の傾向を知るための良い方法なので、もしお時間が許せばぜひ試してみてください。色んなやり方がありますが、慈恵医大では、1日1回寝る前に、その日あったこと・したこと・感じたこと・考えたことを書くことをお勧めしています。ポイントは何かあった時に書くのではなく、できるだけ毎日書き、定点観測になるようにすることです。

体験フォーラムに日記をつづられる方もいます。もしよければ検討してみてください。
(今村祐子)

Mさんは福島在住で放射能の恐怖に困っています。外を出歩けない、窓も開けられない、洗濯物を外に干せない、あらゆる場面で放射能につなげて考えてしまいイライラしてしまう、放射能に対する認識の違いで周囲と争いが絶えないとのことです。一人で県外に出て生活していく自信もなく、生きていく場所はないとの思いもあるようです。

私も(月に1回ですが20年間)福島県の浜通りに行っております。福島の方は普通に生活されているように見えても、原発事故の影響で大変な思いをされ、生活のいろいろな面で支障があるのだろうと思っています。

Yさんはご自身が原発で働いていて原子力が気になった経験を教えてくれました。

Mさんは「例えば、福島県に放射能があることは仕方ない、でも気にしないようにして、自分のやるべきことをやろう、というようなことなのでしょうか?」と聞かれています。気にしないようにするとさらに気になるものです。「不安は自然と湧き上がってくる感情なので、それに対して相手にし過ぎず」→放射能は気になるものの、気にし過ぎで「悪循環」になっているのであれば、悪循環にならぬように棚上げしてみましょう。その際気分にとらわれず、出来るのに症状のために避けているやるべきことを少しずつ取り組んでいきます。すると事前に思っていた感情とは違った体験が出来、それが更なるチャレンジのエネルギーになり、次第に生活も広がっていくと考えます。

一方で、症状が強く日常生活にも支障があるようでしたら、薬物の調整にて症状が軽減することがあります。それによって生活のなかで動けるようになり森田療法の体得がすすむ方もいらっしゃいます。少しずつでも生活が広がっていくことを願っています。頑張って下さい。
(矢野勝治)

Pさんは視線恐怖で悩まれています。森田療法を知ったことで、だいぶ楽にはなられたようですが、職場で目を見て挨拶をするという練習があると、震えてはいけない、変に見られてはいけないと思って、緊張が強くなってとても辛いということです。接客のときなど「しっかりと目を見て話さなくてはいけない」と言われると、よりプレッシャーを感じるものですよね。

一般的には他者と話す時に「目を見て話す」というのは、大切だと言われています。しかし、人と話をするときに本当に一番大切なことは、「相手の目を見る」ことではなく、「自分の言いたいことを相手に伝える」、あるいは「あなたの話をちゃんと聞いています、ということが相手に伝わる」ことなのではないでしょうか。「相手の目を見なくてはならない」という所ばかりに注意が向いてしまうと、逆に自分の伝えたいことが言えない、あるいは、相手の話が頭に入ってこない、という状態になってしまいます。ですから、自分が話をしているときは、相手が自分の話を理解しやすいように工夫したり、相手が理解してくれているか観察したりすること、相手が話をしているときは、しっかりと相手の話を理解することに注意を向けてみてはいかがでしょうか。

実際には、相手の目を見すぎてしまうと、見られているほうも居心地が悪いものです。職場で練習の時は練習と割り切って、実際には適度に視線を相手のおでこや鼻付近などに外すことはしても良いのではないかと思います。「目を見て話さなくてはならない」ということではなく、本来の目的である「自分の言いたいことを相手に伝えたい、相手の言いたいことをしっかりと理解したい」というところに注意を向けていくことで、自然に視線は色々な所に行くはずです。是非ともチャレンジしてみてくださいね。
(谷井一夫)

こんにちは、Mさん。Mさんは過去、強迫性障害と診断されながらも、克服された歴史をお持ちなのですね。職業柄、「きちんとせねば」との思いから確認症状が募ったとしても、仕事を全うしたのですから、それは大変立派なことで目的本位の姿勢に他なりません。

ところで、Mさんは、最近癌などの疾病恐怖に再び悩むようになりました。でも、ここで「再発した」などと余り卑下しないで欲しいと思います。というのも、Mさんにとって不安は生きる羅針盤であり大切な存在だからです。今までは不安が強すぎる余り、それを排除する事にとらわれていただけなのです。一方で、Mさんの不安の裏には「万が一病に陥り、何も出来ないまま人生を終えたくない」という生きる事への飽くなき欲求があると感じます。であるとすれば、不安を排除し安心を得ることだけで終わってはいけません。もし安心を得る事だけにとらわれていたとしたら、Mさんには終わりなき確認行動という結末しか待っていません。不安におびえながら、「健康でありたい」という欲求を生かすことがやはり重要なのです。

欲求を生かす上で、Mさんは考える事で解決を図る姿勢から、実生活に手を出し積極的に体を使うことに意識を向けるよう心がけてください。例えば、健康のために食事を気にかけ色々メニューを工夫することも良いでしょうし、運動をするなどして風邪をひかないなどの体力を身に着けることも良いでしょう。このように、Mさんの手の届く範囲で結構ですから、実生活に対し積極的に関わっていきましょう。考えてみれば、森田先生は入院患者さんに神経症を無くすための手引きを指南したことは一度もありませんでした。むしろ指南した唯一の内容は神経症と共に自身の身体感覚を働かせ、作業に取り組むことでした。その真意は、あらゆる体験を通じて生活感覚を磨くことこそが、症状を抱えるだけでなく、欲求の建設的発揮の上でとても重要であるということなのです。

そして、過去Mさんもまた業務を通じて、自身の「よい仕事をしたい」という欲求を発揮したからこそ、生活への手応えが増した分だけ、安心を追い求める確認症状が相対的に軟化したのだと思います。今は、まだ苦しみの渦中だと思いますが、森田療法の「作業に始まり作業に終わる」という初心に帰り、是非奮闘していただければと思います。是非頑張ってください。
(樋之口潤一郎)

Yさんは、「4年以上前に嫌な怖いイメージが頭から離れなくなりました。」と書き込んでいます。 恐ろしい考えやイメージというものは、どうしようもなく不安で恐ろしいものですね。森田先生自身も子供の頃、お寺で地獄絵を見て長い間その恐ろしいイメージに苦しめられた、というエピソードがあります。

恐怖や怖いイメージが強迫観念になるのは、恐怖を恐怖するまいとし、恐怖に打ち震えているのに心だけ平静にしようという無理な注文をつけてしまっているのかもしれません。

森田先生は恐怖に対する心の態度について、「煩悩の犬、追えども去らず」ということわざを紹介しています。つまり、恐怖は、背を向けて逃げようとしたり、追い払おうとすると、ますます付きまとってくるもの。どうするのが一番良いかというと、動かずにその方を見つめていることだ、というのです。そうすると「幽霊の正体見たり枯れ尾花」というように事実が見えてくるのだといいます。

その怖いイメージから娘さんへの加害恐怖に苦しんでいるとのこと。加害恐怖は、怖いイメージが起こった時に「大切な子供に万が一そんなことがあったら大変」というように、大切な人を守ろう、守らなければならない、という心があればこそ生まれてくるものです。加害恐怖は「自分以外の大切な人に関する事だから」と「あるがままにすることが難しい」と感じる方も多いようです。けれども、加害的な強迫観念を避けるために娘さんといる時間を避けてしまったり、必要な世話をしてあげなくなってしまっては、家族を大切にしたいという本来の望みと「あべこべ」になってしまわないでしょうか。

「強迫観念をそのままにおくことは家族を大切にするためにも必要なこと」として、少しずつ、怖さのままに、生活や家族に必要なことに手や目を向けていってください。

現在は通院中とのこと。主治医の先生ともよくご相談されながら、少しずつ治療を進めていきましょう。
(塩路理恵子)

K様、高校に入ってから人と接するのが怖くなり、孤独と怯えがありさぞかしお辛そうですね。 K様は「元々友達や家族がとても好きです。保育園から中学校まで、周りの人に恵まれていて、いつも誰かの支えに助けられていたと思います。そして、勉強も部活も習い事も、やること全てを楽しく取り組んできました。」とお書きになっています。周りの環境に恵まれて育ってきたことはこれからの原動力になると思います。

「高校生になると、人と接したり関わることが怖くなってしまいました。孤独と他人への怯えがあって、私は本当に1人になってしまったと思いました。それからは勉強に手が付かなくなり、何もかもが上手くいかなくなりました。」とお書きになっていますが、高校生になって今まで以上に実は「今まで以上の周りと仲良くした気持ち」が強まったのではないでしょうか。だからこそ他人への怯えも強まり孤独を感じるようになったのではないでしょうか。孤独を感じているときほど内心実は人を求めている気持ちが強いと思います。

森田は友人ができないと嘆く人に、「それは交際を求めてくる人さえも、自分がこれをすなおに受け入れないからである。人に負けるのが嫌だからである。盲人がやたらに目明きを邪推して、すね、いこじになるようなものである。自分の本心が孤独を好むのではない。負け惜しみである。勝とうとあせるから負ける。負けるがままに捨て身になれば必ず勝つものです。」と説いています。

そんな中、「今私は浪人生です。自分の過去を全て受け入れ、前に進みたいです。」と結んでいます。この文章に表れてるのは現状をなんとかして前へ進みたい気持ちです。この気持ちを大事に浪人生活の勉強へ取り組んでいきましょう。ただ「ご自身の過去を全て受け入れ」と構えなくて良いです。過去の起きた事実は消えませんがとらえ方や距離はその人のこれからの体験で感じ方は徐々に変わっていきます。前向きな行動をする過程で次第に過去のことを受け入れられればぐらいに思っていた方が良いでしょう。
(舘野歩)

Kさんは、自分の娘の首を絞めてしまうのではないか、加害恐怖がある自分が本当に犯罪を起こしてしまうのではないか、と悩んでいるということですね。インターネットが進化し、嘘も本当もなんでも情報が手に入る時代になりました。これは良い面もありますが、自分に必要な情報を選別する能力が求められ、少々生きづらい時代になったと私は感じています。この体験フォーラムもネットでの貴重な交流の場ではあります。しかしあまりネットサーフィンになりすぎないよう、ある程度のインターネットに割く時間を決めてはいかがでしょうか。

過去を振り返り、Kさんは悪意を持って、自らの意志で他者を傷つけたことはありますでしょうか?相手を欺き、自分が利益を得てうれしいと思ったことはありますでしょうか?

人に危害を加えないことは、社会を生きる人間として重要なことであります。それ故に、誰しもが好き好んで人に危害を加えることはないでしょう。Kさんの不安の背景には、“他者を傷つけてはいけない”という気持ちが人一倍強いのでしょうか?裏返して言えば、Kさんは人間への優しさが人一倍あるということです。

人は時に過ちを犯します。また、頭の中で人が憎い、死んでしまったらいいのに、と思うこともあります。完全な善人はこの世にいません。また、人間の思考は自由なものです。内面で様々なネガテイブな感情を持っても実際に衝動行為へ移さなければそれでよいのです。

今まで生きてきた道にある、“事実”を振り返ってください。繰り返しますが、Kさんは悪意を持って人を傷つけたことはありますでしょうか?Kさんの人への優しさ、慎重さを持ってすれば、加害恐怖が沸き上っても、それが実行されることはないでしょう。良くも悪くも強力なブレーキになっているのです。今まで森田理論でやってこられ、気分も安定されていたのですから、文章を拝見する限り回復も早いのではないかと推測します。

また仕事のない日に不安が襲ってくるのですね。仕事をしていないとき、「本当は何をしたいのか?」と見つめ、自分の生き方、日常の過ごし方を見直してはいかがでしょうか。週2回以外の日もより良く生きたい気持ちが強いからこそ不安が襲ってくると思います。仕事以外の日々をいかに充実させるかが大事と思います。

勇気を出して、自分の感情や欲求に素直になって行動してみることをお勧めします。日々目の前のあるべき生活に飛び込んでみてください。手持ち無沙汰なようでしたら、興味のある趣味や仕事にもって手を出してみるとよいと思います。きっと加害恐怖も影を潜め、欲望と恐怖との調和が体得できる日が来ると思います。
(鈴木優一)

Cさんは、「悪い癖のぶり返し」として人前での緊張がひどいと訴えています。未だに非正規パートなので、特に社員に対する劣等感から緊張してしまう、おまけに声も小さく、いつもおどおどして男らしくないと思っているとのことでした。

その後に、「人と会話をするのはとても楽しい」とも書かれているので、本当は“人と関わりたい”“良い関係を築きたい、好かれたい”という気持ちがあるのだと思います。つまり、そうした気持ち、欲求が強いだけに、良く思われないのではないかという不安も強くなり、身構えてしまう結果、緊張が強まってしまうということですね。その際に、正規社員かどうかにこだわってしまうのは、男らしくないという悩みにもあらわれているように「こうあるべき」という考え方が強いためでしょう。男ならばこうあるべきという考えゆえに、自分の立場や振る舞いが理想と異なる・・と感じて、差別意識を強め、自分をかえって委縮させてしまうのかもしれません。

Cさんの本当の欲求を大事にして、ご自身も書かれているように「相手の話す内容をよく聞く」、そして相手を少しでも理解するように、緊張しながら関わる経験を積まれることが重要だと思います。

実際、人と関わると様々な経験をします。その後の書き込みでは、同僚との関りについて「自分に非があったのは認めるが、気分が悪くその同僚と会話をしたくなくなった。その同僚の言動が気になって腹立たしい気分にもなった。こんな些細な言動でこんなに気分が動揺するようではいけない」と述べられていました。後味の悪さやバツの悪さなどもあったと思いますが、皆の前で言われたことに傷ついたのでしょうし、親しい同僚だけに、もう少し配慮してもらいたいといった気持ちもあったのかもしれませんね。

森田は、“普通の人は、誰でも嫌いな人は不快であり、性格の異なる人とはソリが合わない、当然のことである。これを抑圧しようともどうしようともせずに・・(略)・・運命を切り開いていこうとしている。これに反して、神経質は自己中心的の功利主義から、自分の苦痛を最も少なくして、最も大なる幸福を得ようとする工夫から、楽々と愉快に、人と交際し、何ごとにも自分の思うとおりにしたいと考える・・”と述べています。

Cさんの場合は、親しい同僚だったので嫌いな人ではありませんが、自分に対して「こうあるべき」と期待するのと同じように、「こうあって然るべき」と同僚にも期待した結果、腹立ちが強まったのかもしれませんね。人間関係で、思い通りにならなかった時に、相手に対して苛立ちを感じることは誰でも経験することでしょう。つまり、不快に感じたり動揺してしまうことは仕方ないことです。ただし、そこでどう振る舞ったかを振り返ることは自分の責任で「出来ること」です。内心は苛立ちつつも、せめてその気分に振り回されない行動を工夫する、ということですね。そうした様々な気持ちと付き合う経験の積み重ねが、人としての成長に繋がるのではないでしょうか。
(久保田幹子)

Jさんは、対人緊張の悩みですね。集団場面を回避してしまうとのことですが、集団の中に入る必要があるか、入りたいという気持ちがあるかどうかの2点を考えてみる必要があります。元々、Jさんのように一人で読書している時がほっとするような方もいます。集団に入る必要性が低い場合や一人で過ごすことが楽しみな方の場合、無理に集団に入らなくてもよい気がします。

コメントの中にあった「聞き上手になる」というアドバイスにかえってとらわれてしまうと書いてありましたね。おっしゃる通り頭の中で堂々巡りしてしまうのは初め誰もが通る道です。ただ堂々巡りしながらもやむを得ず出席しなければならない会合にはこの方法は有効ですね。または相手の言葉を繰り返すだけでも聞き上手になれます。あとはとりあえず首を動かして頷いてみるという方法もあります。気持ちは整わず不安だらけでも、形をまず整えることによって気持ちがついてくることがあります。

このようにのらりくらりと出席しなければならない会合には時々顔を出し、参加しなくても良いものには参加したい時だけ参加し、あとはご自分の好きなことをなさったらどうでしょうか。また読書好きの方の中には同じ読書好きの人となら楽しく話せるという人もいます。Jさんはどうかわかりませんが、話してみたいなと思う人と話してみる、参加してみたい会から参加してみるのもよいかもしれません。
(石山菜奈子)

妊娠・出産は本当にセンシティブな問題ですね。気を付けて細心の注意を払っていらしたのに、今回流産されたこと、本当に言葉には言い表しがたい思いだと推察いたします。2人目はあきらめているとおっしゃっていますが、あきらめようとしているのであって、心の奥では願う気持ちが強いのではないでしょうか。妊娠するとまた流産するのではという怖い気持ちもストレスを貯めないようにと根を詰めてしまうのも、2人目のお子さんを望まれる気持ちが強いからこそではないかと思います。大切に思っていることはそんなに簡単にあきらめきれないですよね。女性にとっては年齢もありますし、とても葛藤的な問題です。

改めて振り返ってみると、Yさんがお二人目のお子さんを望まれるのはどんな気持ちが強そうですか?上の子にきょうだいがいた方がいいかなという思い?「きょうだいがいた方がいい」など他人の発言が心に引っかかっている可能性もありそう?最初の流産の衝撃が強くて、そこから何かが変わった感じがする?もともと自分のイメージしていた状態と違うことに気持ちがついていかないところもありそう?まったく外れていたらごめんなさい。どんな気持ちからかな?というところが自分がどうしていったら幸せになるかの大事な羅針盤になるように思うのです。きょうだいが生まれるのは結果で、そのことを願うのはどうしてかという気持ちの中身が一番大事。その中身が今後あなたがどうしていったらよいかの道しるべになって行くように思います。もしかして妻(嫁)としてこうあらねばとか、女性としてこうありたいという思いにもつながっているかもしれません。

一方、Yさんのおっしゃるように溜めないようにと思えば思うほど溜まるのがストレス。引きつらないようにと思えば思うほど引きつってしまう表情恐怖と一緒で、緊張やストレスはなかなかコントロールできないものです。上のお子さんは今おいくつなのでしょうか。お子さんとはどんな風に過ごしていますか?お母さんの元気がないのは、他の家族にももちろんですが、特に上のお子さんにとってはとても心配なのではないかと思います。もしまだあまり動けない状態にあるのでしたら、無理やりただ動くというよりも、上のお子さんが必要とすることを一緒にやったり手を出してあげることから生活の一歩を踏み出していくのはどうでしょう。身体がきつい時は少し休みを取りながら、ストレスについてはびくびくしながら、母としてできることをやってあげ、お子さんとやり取りしていくことでYさん自身もまたいろいろ感じるところあるかもしれません。
(今村祐子)

Tさんは心気症状で悩んでいます。これまでに心気症状以外にも、社会に出るようになった時に確認行為・対人場面での症状、出産後には疾病恐怖・心気症状が強まったとのことです。産後の肥立ちが悪かったことから朝から夜まで病気を不安がり、病院を受診・検査をして問題ないと言われても見落としがあるのではと気になりドクターショッピングを続けて、完全に病気を否定出来ないと次に進めない状況に陥っていたようです。

「病院に行って2か月も経っていないのだからと持ちこたえている」「わずかな進歩でしょうか?」と書かれています。頑張っていますね。森田療法の治療過程においてはそのような感じを抱く方は多い印象です。退院を前にした患者さんからは「現在も症状はなくならずに今も気になります」「しかし、入院前のように症状を気にして行動が出来なくなるのでなく、症状ありながらも動けるようになりました。退院後もここでの身につけた姿勢を続けてやっていこうと思います」とよく聞きます。Bさんも症状はかわらずあるけれど「わずかな進歩」を感じられているようですので、その「わずかな進歩」を糧にまた次に進んでいって下さい。いま目の前のやるべき事に取り組んでいくなかで、生活が広がり症状が後景に退いていることにふと気付かれるのではないかと思います。頑張って下さい。
(矢野勝治)

Aさんはご自分の視線が周囲にいってしまい集中できない、自分の視界や視線を常に生活の中で意識してしまう、ということで悩んでいらっしゃいます。今回、職場の異動で細かい数字を扱うこととなって、余計に視線の悩みが仕事の邪魔になっていると感じていらっしゃいます。Aさんは、高校生の頃から約20年間、その悩みがありながらも、お仕事をされ、家庭を守っていらっしゃったのですね。苦しい中、とてもよく頑張ってこられたと思います。

授業の時に「黒板だけに集中したい」という気持ちや、仕事の時に「今の仕事に集中したい」という気持ちがあるのは、とても自然なことだと思います。おそらく、Aさんは、勉強や仕事に対して、「ちゃんとやりたい」という気持ちがとても強いのだと思います。その気持ち自体はとても良いことだと思いますが、その分、「ちゃんとやりたい」が「ちゃんとやらなくては」と森田療法でいうところの「かくあるべし」となっているようですね。「ちゃんとやるためには集中しなくてはいけない」から「集中できない邪魔なものを排除したい」という気持ちも強くなっているのかもしれません。

Aさんが、おっしゃっているように、現実的には「授業だけ」あるいは「今やっている仕事だけ」を見ることは無理ですよね。黒板だけを見よう、先生の話だけ聞こう、と思っても視界には他の生徒の姿が入るし、おしゃべりをしている声も耳に入ってしまいます。それと同じように、「今の仕事だけに集中しよう」と思っても、他の雑務も入ってくれば、他の人の姿も声も目や耳に入ってくることでしょう。

私たちが本当に何かに集中しているときは、他のものはほとんど気にならなくなっているものだと思いますが、それは、自然にその状態が作られたもので、自分で準備をして、その状態を作ったわけではないことがほとんどだと思います。ですから、最初は「集中してないな」と思いながらで構いません。とりあえず、勉強や仕事に手をつけていきましょう。おそらく、他に何も見えないくらい集中していなくても、勉強や仕事はできるはずです。ましてや、20年間、苦しみながらもなんとかやってこられたAさんなら、出来るはずです。だんだんと仕事に注意が向いてくれば、頭は自然と集中してくれるものです。是非とも「集中してから仕事をしよう」ではなく、「仕事に手をつけているうちに勝手に集中してくるもの」ということを実践してみてくださいね。
(谷井一夫)