強迫神経症の部屋

Rさん、はじめまして。

入社してから思うように仕事ができず、また職場の人間関係にも馴染めず不眠・うつ状態となり休職された。また、その他何事に対しても強い葛藤を抱えているということですね。

ご相談の内容を読む限り、Rさんの悩みは神経症の悩みであり、絶対的な休養は必要ないでしょう。社会的な面に目を向けると「自分は同僚より劣っているのではないか」「人間関係は円滑でなくてはいけない」「もっとよい仕事をしなくてはいけない」という気持ちがあるように感じます。

また、体調面に目を向けると「しっかり眠らなくてはならないと元気になれない」「心の病気は治らないのではないか」といった不安が強いように感じます。これらの気持ちは、よりよく生きたい、力強く生きたいという、強い気持ちが背景にあると推察します。これはRさんの良さであり強みです。このようなエネルギーがあることは本来すばらしいことです。しかし、今はそれが空回りしているのでしょう。

まず地に足をつけた行動を心かげましょう。新卒で入社ばかりということですから、まだまだ仕事はできなくて当然、失敗は嫌でしょうが、たくさん失敗してそこから学べばよいのです。攻めは最大の防御です。ひきこもっていては、どんどん頭でっかちになり、悩みは膨らむものです。今は休職されているとのことですが、上司と相談し、職場の上司が何を求めているのか、自分はどんな気持ちで仕事をしたいのか話し合ってみるのも方法だと思います。

“不安をなくてしたら行動”ではなく“不安はそのままに、不安があっても行動”を心かげてください。まだまだ若いということですので、完璧にできる訳がありません。世間で一流と言われる先輩達も皆そうですから。
(鈴木優一)

Aさんは「数を数えたくないのに数えてしまう。このまま数え続けて止まらなくなったらと思うとたまらなく怖い」と書き込まれています。具体的には、唾や食べ物を飲み込む時の回数を数えるということですが、どんなことが不安で・・・あるいは、何のために数を数えているのでしょうか。その点がはっきりわからないのですが、Aさんのように数を数える儀式にとらわれている強迫神経症の方は多いのです。

きっかけや不安の対象は人それぞれですが、「鍵がきちんとしまっているかどうか」「汚れがきちんと落ちているかどうか」といった曖昧さに対する不安に区切りをつけるために、数を決めて「これで大丈夫」と“とりあえず”の安心を得ようとするのです。Aさんの場合も当初は「いつ飲み込んだら良いのか?」と漠然とした不安を抱き、それを取り除くために『数』を決めてみたところ、一時的に安心感を持てたことがきっかけだと思いますが、そうするとその『数』通りにやらないと落ち着かなくなり、どんどんエスカレートしてしまったのではないでしょうか。

『数』を決めると、曖昧さがなくなるので不安が無くなるような気分になります。しかし、先ほども「一時的」と書いたように、次は「果たしてこれで本当に大丈夫?」という疑念が生じるので、どんどんその儀式的行為は増えていってしまうわけです。  確かにこのままではAさんが懸念しているように、数え続ける行為から抜け出せなくなってしまいますね。ではどうしたらよいでしょうか?

そもそも私たちは、呼吸にしても唾を飲み込むにしても無意識に行っているものです。いつ息を吸って、いつ吐いて・・・と考えだしたら、とても自然に呼吸は出来なくなりますよね。飲み込む行為についても同様です。そこに注意を向け過ぎるために、逆に不自然になりますし、安心を得るための儀式行為であったはずなのに、どんどん不安をつのらせる結果になってしまいます。まさに安心の儀式は、不安を生むための儀式だったとういことです。

本来は、数を数えることが目的ではなく、食べものを食べる、あるいは飲み物を飲むことが目的だったはずです。とはいえ、ここまで数を数える行為が日常化してしまうとすぐにそれをやめるのは不安かもしれません。最初は、あまり力まずに、まずは今自分が取り組んでいる行動に目を向けてみましょう。掃除でも、料理でも、ジョギングや散歩でも、なんでも構いません。それを丁寧にやるように心がけてみるのです。その中で、ひょんなことから無意識に唾を飲み込んでいるタイミングがわかるはずです。人間の機能は、自動的に調節できるように出来ていますから、身体が勝手にやってくれることに任せてみるのです。そうしているうちに、いつの間にか少しずつ、数を数えることが少なくなっていくでしょう。

何より大切なことは、どんな一日を過ごしたいのかを考え、数を数える時間と労力をそちらに向けることです。本当の安心、満足した気持ちは、そうした1日を過ごした時に得られるものではないでしょうか。
(久保田幹子)

Qさんは、人を傷つけるのではないかといつも周囲に気を遣ってしまうとのこと、これは人に丁寧に接したい、相手を大切にしたい気持ちの現れだと思います。話に出ていました職場にいらっしゃる不機嫌な人にはない、相手を思いやる気持ちのある方なのでそう思えるのです。

過去の失敗がトラウマになったということですが、そのことを親しい友達などに話したことはありますか?自分が失敗だと思っていることも、友達など他人から客観的に見れば失敗ではないことがよくあります。人とトラブルがあった時に、誰かに話してみると自分では考えられなかった視点を示してくれることがあります。神経症の患者さんは、それを「自分がだめだからだ」と一面的に決めつけてしまいやすいところがあります。まずは人と何かトラブルがあった時に、信頼できる人に話してみるといいでしょう。信頼できる人がいなければ、カウンセラーなどの専門家を利用するのも良いかもしれません。

また森田先生は、禅の言葉である「無所住心」を患者さんたちに伝えていました。無所住心は、周囲の全ての事に気が付いて、しかも何事にも心が固着しないで、水の流るるごとくに心が自由自在に流転していく有様のことを言います。子どもが遊んでいる時に、外の刺激にハラハラしながら遊ぶ様子と似ているとも言っています。仕事だとおそらくここまでの心境になるのは難しいですが、それと近い心持で仕事に取り組んでみて下さい。

一番初めにお伝えしましたが、相手を思いやる気持ちを持てるという事は、むしろQさんの強みです。人の痛みやつらさを理解することができる方だと推察します。今のQさんそのままの良さを生かして、仕事以外にも興味のある場に出ていってください。
(大久保菜奈子)

Sさんは小さい頃からご両親の離婚や祖父の暴力、学校のいじめや先生による隠ぺいなど様々な苦難を乗り越えてこられました。数か月前にママ友2人からひどい扱いを受けたことをきっかけに、今までより対人恐怖が増し、人と関わることを避けてしまうとのことです。

Sさんがそこまでの恐怖を感じられるのは、起きたことがよほど思わぬことだったり、驚くようなことだったのかなと思います。あまりにもひどいことが自分の身に急に起こると、それほどの恐怖が起きるのも無理はないのではないでしょうか。

Sさんは、これまでの大変な中を良くやっていらしたなと思います。そしてその中でも安心できる家族との関係を築いてこられた。家族に対して安心できるということは大事な対人関係の土台ですね。

ママ友は自分の友達ではなく、子どもを通じての関係で、自分の友人関係よりも難しいというママたちの声を臨床の現場でもよく聞きます。自分の友達であれば気が合わなければ付き合わなくても良いですが、子どもや地域が絡んでいたり、子どもが学校を卒業するまでは少なくとも何年かは一緒など時間の制約もあり、立ち振る舞いに気を遣うことが多く疲れてしまうことが少なくないようです。

病院にもかかられているとのことなので、無理のないペースでゆっくり治療を受けていかれるのが良いのではないかと思います。
(今村祐子)

Yさんは幼いころから神経質で心配性だったとのこと。そんななか義母に結婚時から何事にもダメだしされたり、「楽しい思いをしたり、好きなことをすると、他の家族によくないことが起こる。決して油断してはいけない」と言われ、Yさんが原因で悪いことが起こることにされてきて、今でも気になって苦しんでいます。例えば、娘さんが受験に合格した後に夫が病気になった際には、義母からはYさんが合格を喜んだから夫がつらい思いをするのだと責められたとのこと。

人が喜ぶことで周囲が病気になることは一般的には考えられません。悪いことを自分に結び付けられて責められるのは本当に辛いことだと思います。義母さんからの言葉も義母さんの考えすぎや関連付けと思えるところは気にし過ぎず、「勝って兜の緒を締めよ」「百里を行く者は九十を半ばとす」というようなプラスの内容に転換し受け取るくらいにしてみましょう。

他にも、乳癌の自己検診や家の戸締りについて、自分の判断で取り返しがつかないことをまねいたらどうしようと不安になり確認を止められないとのことです。「とらわれすぎて入浴時に自分の身体を見ないように目をつぶり胸のあたりも直に触らないようにしています。何かに気づくと普通なのか判断に時間がかかりのぼせたりめまいが起こることがあるからです」。森田療法に沿って考え行動を起こそうとしても不安や心配を見つける方に考えが向いて、「自分の健康のためには必須なのに逃げたくて仕方がありません。本末転倒です。」と、一歩を踏み出せないでいるとのことです。

一方で「夫が病気になったので自分は今元気でいなくてはという気持ちがあるのだと思います」と症状をきちんと読みかえることが出来ており、「不慮の事や不条理は生きているうえでは避けられないのでそれを引き受ける覚悟を持てるようになりたい」と思っています。迷った時や混乱したときには本当はどうしたいのかと問い直し、不安や心配をもとに行動するのでなく、今出来ることから一歩ずつやってみて下さい。
(矢野勝治)

Lさんは働きたいという気持ちが強い反面、不安が強く、発表や大勢の前の発言などが苦手で昔から悩まれています。それを打破するためにプレゼンの練習をしたり、自己啓発本を読んだりと色々と努力もされてきて、新しい仕事に就こうと行動されています。Lさんは不安・緊張が強い中、なんとかしようと、今まで沢山の努力をされてきたのですね。すごく立派なことだと思います。

何かをしよう、と思った時には、「うまくいかなかったら、どうしよう」とか「また不安や症状が出てきたらどうしよう」と感じるものですよね。何かをやる前の不安というのは、漠然としていて、いくらでも頭の中で「あーかもしれない」「こーかもしれない」とシミュレーションできてしまうため、何をどう準備して良いか分からず、動けなくなってしまいがちです。そうなってくると、動けない自分が情けなく感じたり、自信を失ってしまったりしがちです。

しかし、実際は、新しい環境・世界に進んでいこうとするときは、その中に入ってみないと、何をどう準備して良いのか分からないことも多いものです。ですから、現実的に準備できることは準備して、あとは中に入ってみるしか、それらを知る方法はありません。もちろん、新しい世界の中に入ってから、不安になったり、緊張して動悸や手が震えたりすることもあるかもしれません。しかし、それらの症状は出ても良いのです。

最初から「堂々と発表しなくてはならない」とか「緊張してはいけない」と「かくあるべし」にならずに、「不安だなぁ」とか「緊張するなぁ」と感じながら、なんとかその場にとどまっていけばよいのです。不安ながら、おっかなびっくり発表したり、人と関わっていったりすることで、少しずつ経験として身になっていくものです。

ですから、不安がなくなってから「新しい世界に進もう」ではなく、「新しい世界に入りたい」という気持ちを大切にして、不安ながらにおっかなびっくり新しい世界に突入してみましょう。克己の姿勢が強いLさんなら、その中で経験を沢山積んでいけるはずです。是非とも頑張ってくださいね。
(谷井一夫)

こんにちは、Sさん。Sさんは視線恐怖に悩まれているのですね。認知療法まで試そうとしたのですから、何とか症状を克服しようと奮闘されたのだと思います。

ところで私は、最近世の中が頓に、マスメディアを通じて社会に適応すべき理想像を示そうとしている風潮に危機感を抱いています。その理想像とは、そつなくマルチタスクを遂行し、周囲に明朗に振る舞うなどです。ところが、実際にこのような能力を有している人はほんの一握りですし、私から見ればスーパーマンのようなものです。ただ対人恐怖症の患者さんの多くは、この理想像にとらわれがちです。何故なら、自分の感性に自信がなく、何かが足りないといつも感じているために、世の中の理想像と比較することでしか、自分の価値を確かめられないからです。そして、理造像から外れると、さも自分が世の中の不適合者であると決めてかかり緊張を募らせてしまいます。

でも、実際不適合者なのなのでしょうか? 私はそうは全く思いません。もし、Sさんが社会の価値基準である理想像を求めているとしたら、そのことにまず疑問符を投げかけることが大切です。世の中の理想像と自分の感性は異なるのが自然であり、それが其々の個性なのだと思います。確かに、Sさんは恐らく人との関わりはもともと苦手なのでしょう。そうであれば、緊張は致し方ないし、この事実は悔しいけど引き受けて行かなければなりません。でも、悲観する必要はありません。私は、Stars8さんが「緊張の中で、働きたいからバイトに行った」という件に回復の可能性を感じています。何故なら、Sさんは社会で求められている理想像とは異なる、「苦しいけど何となく〜したい」など自分なりの感覚を有していると思ったためです。そして、このような感覚を実際の生活に少しずつ反映させることが、Sさんの本当の回復であるのだと思います。

そのためにも、緊張と共に実生活に何となく手を出し、自分の感覚を磨いていくことが大切です。考えているだけではだめです。何事も体験、その体験が積み重なる中で、自ずと自分の欲求が見えてくると思います。苦しい中ではありますが、お仕事など次の展開があることを願っています。
(樋之口潤一郎)

Kさんは、「 人が視界に入ると気になってしまう、人の目が気になりガチガチになって話す時や目線もぎこちなくなってしまいます。」と書き込んでおられます。視野の中に入った人が気になる、相手に自分の視線が向いてしまい迷惑をかけると感じる状態を「脇見恐怖」「横視野恐怖」と呼びますが、そのような状態でしょうか。人間の視野はもともと180度以上あり、正面だけを見るようにはできていないものですが、ふとしたときに視野に入る人に注意がむいてしまい、とらわれてしまう状態です。学校の教室で前の黒板を見ているときに視野に入るクラスメートが気になってしまう、などが典型的な悩みです。

さて、Kさんは、「仕事も長く続かずに転々としてました。今常駐で働かせていただいている職場の人達が気を使ってくれたりとても良いところ」であり、「今までは申し訳なさもあり、転々としてましたが、今の職場および職場の人達は大切にしたいと思い迷惑をかけながらも長いあいだ続けていきたいです。 」とのこと、そう思える職場に巡り合えたこと、素晴らしいと思います。

「最近1人で落ち込むことばかりで周りの方にも気にさせてしまっています。」とのことですが、周りの方は、「視線で迷惑をかけるから」ではなく、「落ち込んだ様子」を気にかけ、心配しているのではないでしょうか。

「そのためにまず人に緊張してしまう自分を治したい」とのことですが、これまで緊張しないように、どうふるまうか、何を話すかを考えて、ますます緊張してきてしまってはいないでしょうか。ここは、「今の職場と職場の人達を大切にしたい」という「目的」に沿っていきましょう。

具体的には仕事で何をやったら職場の人が助かるか考えて動いてみる、相手の人の話をよく聞いてみる、などです。大きなことではなく、「これはここに置くと使いやすいかな」と考えて工夫するなどから始めるといいでしょう。ぜひ、Kさんの気遣いを職場を大切にすることのほうに活かしていってください。
(塩路理恵子)

Oさん、人の言葉の意味がわからないことや仕事上でのことでお辛そうですね。しかし文面を見る限りではありますが、Oさんは能力的に「聞き取る力」がない、あるいは「仕事ができな」のではないと思います。

Oさんの二つ目の投稿で「プライベートでは良い」というところがヒントではと感じます。つまり、「人の話を全て聞き取らなければならない」といった理想主義や、「自信のなさから完璧主義を仕事で目指してしまい、本来仕事で必要なこと以外に注意が向いている」ことが原因ではないかとお察しします。

森田療法の創設者・森田正馬先生は、「神経質のなりどころ」を指導され、「神経衰弱と強迫観念の根治法」の中で「神経質の長所と短所」を挙げています。そこでは「神経質の素質による長所は、種々あげることができるけれども、これにとらわれて病的となるときは、これがことごとくその短所となって現れるのである。(中略)神経質の自己内省が強いということは『人を知るは智なり、自ら知るは明なり』というように、(中略)はじめて良知となることができる。(中略)神経質のただわれ独り苦しいという心持ちは、ひとたびその心境を転回して、自己の素質の長所に覚醒したときに、これが唯我独尊となるのである。この心は、すなわち人を恨み、自分をかこつ卑屈の心ではない。自己の全力を発揮し、人をあわれみ、周囲を済度する力である。」と述べています。ご自身で、「本当にそのとき何が大事か」をもう一度振り返ってみてください。人の話を聞く際には、「一字一句の言葉でなく、ざっと何が言いたいかの要点をつかむようにする」ことではないでしょうか。仕事では「7割」に「とらわれず」、仕事上で何が「幹」で何が「枝」かを分別することが大事でしょう。今は「言葉」や「仕事のミス」へ「神経質」傾向が向いているので、そのエネルギーを先ほど書いたような「建設的な方向」へ転換していけばよいと思います。
(舘野歩)

Lさんは中学1年生に無視されたことをきっかけに人間不信に陥りとても辛い状況とお察し致します。

人はなぜ友を求めるのでしょう?人間は本質的に承認欲求を持っているものです。誰かに認めてもらいたい、自分の考えをわかってもらいたいという気持ちです。世の中さまざまな人がいるもので、まったく人に興味を持たず、一人がよいという人も中にはいます。そのような方の場合は、Lさんのような悩みは生まれないでしょう。Lさんの中に、“自分は変な人だと思われているのではないか”、“友人が他の人と楽しそうに話しているのを見ると嫉妬する”といった気持ちがあるということは、“人に好かれたい”、“認められたい”といった生の欲求の裏返しなのかもしれません。そういった生の欲求をLさんが持っていることはすばらしいことです。しかしその気持ちが過剰に働く時、不安や絶望が襲うのでしょう。

また、「こいつは仲間、こいつは敵」という感覚もとても辛いものと思います。ありふれたアドバイスかもしれませんが、仲の良い友人は一人いればそれで十分です。多くの大人も心を許せる友人は一人や二人だったりします。敵が多くても今はよいでしょう。その一人の友人もLさんと同じような悩みを持っているかもしれませんし、その時は相談に乗ってあげてください。お互い支え合える関係になれるといいですね。

しかし、人間は最終的には孤独な存在でもあります。孤独でありながらも、大学に行っている本当の目標、今やるべきことにしっかり目を向けましょう。Lさんは繊細でありながらも、人一倍頑張り屋さんであると思います。是非学生の本業でその力を発揮してください。そのうち、気づいたら自然と仲間が増えていくでしょう。これからのご活躍を願っています。
(鈴木優一)

Mさんは、怒りや悲しみに対する付き合い方に悩んでおられるようです。接客バイトで良く先輩に怒られ落ち込んでしまうので、解決策として言われたことの受け止め方を変えようとしたものの上手くいかなかったとのことでした。そこで森田療法に出会い、「悲しみをあるがままにしておくこと」を心がけていたものの、ある日悲しみと怒りが爆発してしまった、長期的な怒りはあるがままに出来ないのではないかと書かれています。

私達人間は、感情の動物とも言われているように、喜怒哀楽があります。それは好む好まざるにかかわらず、自然に生じるものです。怒られて落ち込む解決策として、言われたことの受け止め方を変えようとしたとのことですが、考え方を変えるのも頭だけの理解だと行き詰ってしまうかもしれませんね。その後は「あるがまま」を心がけていたようですが、森田の言う「あるがまま」は心がけると案外ずれてしまいがちです。実際森田は「あるがままになろうとしては、既にあるがままではない」と述べており、「夏が来れば暑い、それなら暑いと思っていればよいか、と問うてはいけない。思わなくとも暑いからそのままでよろしい。夏は暑い、嫌なことは気になる、不安は苦しい、雪は白い、夜は暗い、なんとも仕方がない。それが事実であるから、どうとも考え方を工夫する余地はない」とも言っています。つまり、Mさんの場合であれば、怒られて悲しいと思うのは仕方がないことであり、そう感じている事実をそのまま受けとめるということなのですが、それだけだと苦しくもなってしまいますよね。そこで同時に森田が促しているのは、本来の欲求にもあるがままに従うということです。怒られて悲しいのは、本当は認めてもらいたい、仕事をきちんとこなしたいという気持ちがあるからこそでしょう。一生懸命やっているつもりなのに、いつも上手くいかない。そうした自分に対する落胆や、怒られて傷つく気持ちが悲しさや苛立ちに繋がるのでしょう。そうであるならば、悲しさはそのまま受けとめつつ、同じ悲しみを味わいたくないからこそどうするかといった工夫が大事になってくるのです。その際には悲しみの裏側にある本来の欲求が足がかりになるでしょう。

Mさんは、先輩の指示やお客様の言っていることが理解できず怒られてしまうということでしたが、理解できないことを理解するにはどうしたら良いでしょう。先輩が怒りっぽいようであれば、周囲の他のバイト仲間に聞いてみたり、店長などに相談をしてみると何か上手くいかない理由が見えてくるかもしれません。他のバイト仲間のやり方を観察して真似てみるのも良いかもしれません。これまでにたまった怒りも、単に気持ちだけを受け止めようとするならば忍耐になってしまいます。怒りは怒りとして自分で認め、じゃあどうするか?と試行錯誤をするならば、怒りは自分の成長のためのパワーになるはずです。その中で少しずつ自分の何が足りなかったのか、何は出来ていたのかを知ることで、これまで溜まっていた怒りもいつのまにか流れていく(昇華されていく)のではないでしょうか。
(久保田幹子)

Sさんは、13年加害恐怖に苦しんできたとのこと、本当に大変でしたね。「子どもを殺したいと思ってしまった」とのことでご自身のことが怖くなられたのですね。外来で小さいお子さんをお持ちの方たちの話を聞くと、「殺したいと思ってしまった」という話はよく聞きます。Sだけではなく、子育てはそれほど負担がかかるものなのです。さらに、下のお子さんを出産した直後のことですので、ホルモンのバランスの影響も考えられます。「産後うつ」という言葉を聞かれたことがあるかもしれませんが、女性は出産によってホルモンのバランスが激変します。それにより抑うつ状態を引き起こしやすくなるのです。抑うつ状態まではいかなくても、出産直後のイライラ感はホルモンバランスの変化によるものの影響が少なからずあると思います。

さて、このような加害恐怖にどのように対応していくかです。Sさんのメッセージを読みますと、加害恐怖が起こった瞬間、友達に電話をかけたと書かれています。親しいお友達なのだと思います。そういった親しい友達に、「子どもを殺したいと思ってしまった」ことなどをオープンに話してみるのもよいでしょう。お子さんを持っている友達であれば、「私もそう思った」など同じような体験をしていることに気付くはずです。そして「殺したいと思ってしまった」という気持ちを事実として受け止めるのです。感情はコントロールできないですし、あってよいのです。さらに、Sさんは子どもを殺したいとまで思うほど大変な子育てを、加害恐怖と付き合いながら自らの力で乗り越えてきたのです。「よくここまできたな」と自分を褒めて下さい。

今も「いつか人を殺すのではないか」との雑念を抱いていらっしゃるようですが、特に対処する必要はありません。「自分はこういう感情を持っているけどそれは自然なものだ」「人を大切に思うからこそ殺してはいけないと思ってしまうんだ」と思い、流れていくのを待ちましょう。ゆったりと流れる川のように恐ろしいイメージもゆっくりと流れていくのです。そして見方を変えると加害恐怖にはSさんの人を愛する気持ちが詰まっている気がします。加害恐怖を「本当は良い人だけど表現が不器用で急に現れる友達のようなもの」と考えてはどうでしょうか。

ヨガなど身体を動かすことはとても良いと思います。ヨガは「今ここで」に集中できますし、自分の身体を大切にしていこう、さらに自分の心も大切にしていこうという気持ちにつながります。このように行動は続けていってください。
(大久保菜奈子)