強迫神経症の部屋

Hさん、こんにちは。Hさんは、呼吸が気になり「呼吸をしなくてはいけない、呼吸を止めてはいけない」という観念が継続的に頭の中で繰り返されることと、瞬きが気になることでお困りなのですね。Hさんがされている対応として、呼吸や瞬きが気になっても、「あ、また思い浮かんだな…」となるべく受け流すようにされているとのこと。また、どのような気持ち(考え)でいるかよりも、何をしたかを重視する姿勢を大切にしていると書かれていますね。これらのHさんの対応は、「視点を変える」という点でとても良い工夫だと感じます。しかし、Hさんとしては頭で分かっていても、苦しさがあるのですね。

神経質症の悩みとは、「健康な人なら誰にでもある、またなくてはならない心理的あるいは生理的な現象を、異常や病気と思い込んでしまうこと」に基づいて生じます。Hさんが気にされている呼吸も瞬きも、本来は自然な生理現象であるものを、「~しなければいけない!」という構えから、悩みが生じていると理解できます。

これに対して、森田療法では、悩みを「不足ではなく過剰」の文脈で捉えます。つまり、「自分は何か足りないのではないか」と感じ、どうにかしようとしてしまう姿勢に対して、「気にしすぎ・やり過ぎ」と捉えて、緩めていくことをすすめていきます。そうした視点の転換が、これまでの思考・活動パターンをちょっと変えていくきっかけになるものです。

Hさんの場合は、休職中とのことですが、休職期間がまだあるにも関わらず、「復職した方が良いのでは?」と気に病まれたり、奥様やお子さんのことを心配されて休まらない日々を過ごされているようですね。元々ワーカホリックで完璧主義、理想が高いというHさん。もしかすると、今のHさんにとっては「緩める」というのは少し抵抗があるかもしれません。そうであれば、「緩める」ではなくて「視点を変える」という観点で捉えてみてください。今、せっかく時間があるのであれば、お子さんや奥様との時間を大切に過ごしてみるのも一つです。自分が何に関心があるのか、探してみる機会としても良いかもしれません。苦しい時こそ視点を変えてみることで、Hさんの生活が広がっていかれることを願っています。
(金子咲)

Sさんは幼少期から神経質で、10数年前から音に過敏に反応するようになりました。隣人の音が常に気になり、音がしていない時でも、またいつ音がするかと構えてしまい、常に心身が休まらずに困っていらっしゃいます。また、そのために引っ越しを繰り返されています。その中でSさんは、雑音に対する様々な工夫をされてきたり、あるがままを受け入れようとしたりと、努力されていらっしゃいます。また、Sさんは「べき思考」が強く、「周囲に気を遣い音をたてないように生活すべき」とも考えていらっしゃいます。一方で、Sさんは何をしているときでも、常に音の事にとらわれて、それが苦しくてとても辛いので、つい症状をなくそうと思うと、精神交互作用で余計に酷くなるということも理解されていらっしゃるようです。

Sさん、音を気にしてしまう自分、それをなくしたいと思う自分を受け入れようと非常に努力をされてきたのですね。

誰でも不快な感情・感覚・出来事などをすぐにそのまま受け入れるというのは難しいものだと思います。それでも「受け入れなくてはいけない」と構えると、かえって、そのことにとらわれてしまうものです。そのように感じてしまうこと・そのような出来事になってしまったこと、はどうにもならないこと、と受け止めるくらいでいいのではないでしょうか。自然体でいようと思うと不自然になるように、「あるがままに受け入れよう」と考えた時点でそれは「あるがまま」ではなくなります。簡単に言えば、嫌なものは「嫌だなぁ」で良いのだと思います。

Sさんは非常に努力家だと思いますが、何か行動をするときに、不快な感覚や感情を無くすことが目的になっていないでしょうか。また、Sさんは「普通の生活を送りたい」と書かれていますが、具体的にはどんな生活でしょうか。普通の生活というのは、人によってかなり異なります。無職・独居でインコの世話をする以外趣味がないとおっしゃっていますが、この症状がなかったら、どんな生活を送りたいのでしょう。「こういう生活をすべき」といった「べき思考」ではなく、「こういう生活をしたい」というご自分の気持ちを見つめなおしてみてはいかがでしょうか。ご自分の大切な欲求が見えてくると、そこから主体的な生活へとつながり、とらわれから抜け出すヒントになると思います。症状をなんとかしようと、多大なる努力をされてきたSさんであれば、自分のしたい生活にエネルギーを注げるはずです。是非とも頑張ってくださいね。応援しています。
(谷井一夫)

A様、色々気になって大変ですね。ご自身色々な診断基準に当てはまるかなと検索したと想像します。確かに今の時代チェックリストのようなものが容易にインターネットで入手できるので例えばうつ病になる前に対処できる良い面もあります。ただご自身の記載を見ていると、完璧主義などが悪い方向に向いてしまっている現状かなと思います。

森田療法の創設者・森田正馬先生は、「神経質のなりどころ」を指導され、「神経衰弱と強迫観念の根治法」の中で「神経質の長所と短所」を挙げています。そこでは「神経質の素質による長所は、種々あげることができるけれども、これにとらわれて病的となるときは、これがことごとくその短所となって現れるのである。たとえ、世にこれほど大きな害毒を流すものはない。神経質の自己内省が強いということは『人を知るは智なり、自ら知るは明なり』というように、これによってはじめて良知となることができる。ヒステリーや意志薄弱者のとうてい及ばぬところである。にもかかわらず神経質はたとえば頭痛とか不眠とか煩悩とか、その自己観察にとらわれたときには、世の人は皆爽快で安楽ではあるけれども、ただわれ独り苦痛に堪えないというふうに全く自己中心的になりきってしまい、親も兄弟も、誰も自分を理解してくれるものがないといって人を恨み、世をかこち、さらに親の遺伝までも腹立たしくなり、周囲に八つ当りするようになる、これが神経質を自我主義と称するところである。(中略)神経質は理性的であるから、しつこいのである。「雪の日や、あれも人の子 樽拾い」といえば、普通の人ならば単純にわが子ならばさせまいと同情の心大いに湧き出るのであるが、神経質はそう簡単にはいかない。あれは小僧で、下等者会の子供であるから寒いことも知らない。自分は神経過敏であるから、とても身体が堪えられないと言う風に考える。神経質を、実はけっしてこのように過敏であると決めてしまうことはできない。ただ独断で、自己中心的に、そう決めているだけである。その過敏の程度は、これを実験してみればただちにわかることである。人に対する正しい同情と言うことは、自己内省を欠いてけっしてできるのもではない。この適切な精神作用も、悪用してこそ、はじめて有害になるのである。神経質のただわれ独り苦しいという心持ちは、ひとたびその心境を転回して、自己の素質の長所に覚醒したときに、これが唯我独尊となるのである。この心は、すなわち人を恨み、自分をかこつ卑屈の心ではない。自己の全力を発揮し、人をあわれみ、周囲を済度する力である」と述べています。

「今回の家の事は、自分がやらないといけない事なので、なるべく早く、業者を見つけて、進まないとと、思っています」とお書きになっていますように、色々気になるけれどもそままに、今必要なことを実践していくことと思います。揺れ戻しはあるかもしれませんが、らせん状に改善していく可能性が充分にあると思います。どうかお大事になさってください。
(舘野歩)

Mさん、こんにちは。東京慈恵会医科大学附属第三病院精神神経科の半田と申します。

不潔恐怖の症状で、とくにお仕事に関して非常に困っておられるのですね。移動手段がどれも難しいとなると、選択肢がかなり限られてしまいますね(自家用車や自転車も乗れないというのは、どういうことを不安に感じておられるのでしょうか?)。しかし、そんな中でも1,000社以上(!)も応募されたということからは、ものすごくがんばって取り組まれているのだなということが、とてもよく伝わってきます。また、お仕事のことを中心に書いてくださっていますが、息子さんと二人暮らしで、家事や買い物などの生活のこと、そして息子さんのこともきっと不安なことはいっぱいあるのだと思います。それなのに、書いておられないだけかもしれませんが、そちらはなんとかやってらっしゃる。だとしたら、それだけでもものすごいことだと思います。きっととても努力家な方なのだと思います。ただ、こと強迫性障害の症状に関しましては、症状を克服しようとがんばればがんばるほど悪化してしまいますので、もしかしたらご自身のそういったすばらしい性格が裏目に出てしまっているのかもしれません。具体的にどうすればよいかということについては、もう少し詳しく伺ってみないことにはお答えしづらいですので、もし行ける範囲に病院がありましたら受診していただくとよいと思います。ただ、お子さんのことや生活のことはしっかりやっているということ、そしてそちらをより充実させていくこともお仕事と同じかそれ以上に大切なことである、ということはお伝えしたいと思います。Mさんの生活全体が少しずつ、より豊かになっていくことを祈っております。
(半田航平)

Yさんは幼いころから他人の視線、特にご自身の口元が気になって、会話や会食が難しかったそうです。多少改善した現在も、目から下の顔が気になって外出時はマスクが手放せず、笑い声が聞こえると自分のことを笑っている、おかしな人と思われている、と思うことが苦しいと書かれていました。

短い記載なので、わからない部分も多いかもしれませんが、Yさんが他人の視線や思惑を気にする背景には、ご自身の容姿に対する否定的な評価があるようです。そして、それをコンプレックスと感じ、何とか隠そうとするものの、逆にそれが周囲の反応に対する過敏さを強めているように読み取れました。生活への支障がかなり大きいと書かれているので、かなり辛い状況が続いているのだろうと推察します。

対人的な悩みを抱えている方の多くは、人とうまく関われない理由として、ご自身が何か人と違う、普通ではないと考えがちです。そうなると、より一層コンプレックスは大きくなってしまいますし、人と関わる際に委縮してしまいますね。では、実際はどうなのでしょう?

Yさんの「自分のことを笑っていると思い込み」「おかしな人であると思われているという思いが」といった記載を見ると、ご自身が感じることがまさに現実・事実であると決めてしまっているようにも思うのですが、いかがでしょうか。

森田先生は、「『案ずるより産むがやすい』ということがある。実際に事実は気分とは違う。案ずるのは夢のようなもので、想像が事実のように思われてくる。恐ろしい心で見れば枯れススキも幽霊になる。これをジッと見つめれば幽霊の正体もわかる」と書かれています。つまり、怖い怖いと思って見ると、枯れススキも幽霊に見えてしまうが、事実は案外違うということです。また、森田先生はこうも言っています。ウトウト眠っている時に大きな音がしたら誰でもびっくりする。通常は「ああ、びっくりした」で終わり、その事柄が経てば忘れてしまうが、神経質はその事柄よりも、むしろ自分の身体の感じの方に集中して、その不快な気分に怯え、ついにはその事実から離れて恐怖のみに支配される。例えば、丸木橋を渡る時に、普通の人は、向こうの岸の方を見つめてスラスラ渡るが、神経質は自分の足元ばかりを気にして、少しも向こうの方を見ることが出来ないのと同様である、と。

他人の評価が気になるのは、それだけ良い関係を築きたいという気持ちが強いからでしょう。しかしその際に、恐怖や怯えのままに周囲を見てしまうと、「もしかしたら~」という想像も事実のように見えてしまうかもしれません。先のYさんの記載であれば、笑い声というのは、全く別の話題で笑っているだけなのかもしれないのですから。絶えず、自分の身体・感覚の方にばかり注意を向けてしまうと、視野も狭くなるでしょうし、案外周囲の状況が見えなくなってしまうかもしれません。とりあえずマスクはしつつでも、周囲に目を向け、他の人の行動、そして景色などをよく観察してみましょう。注意をどこに向けるかによって、見えてくるもの、感じるものは変わってくるのではないでしょうか。
(久保田幹子)

Cさん、こんにちは。小さい頃からいじめられたり酷く当たられたりすることが多く、人に対する怯えが強くなってしまわれたのですね。そうした経験をされると、自分の素直な感情を出すことが怖くなってしまって、自分の一挙手一投足に気を配ってしまうC さんのお気持ちは、無理もないことと思います。しかし、そうした対応をすることで Cさんはどんどん苦しくなってしまったのですね。大学生になると、希死念慮が生じ、人の目が怖くてろくに外出もできなくなってしまったとのこと。本当にお辛いですね。 Cさんの自分を守るための対応が、なんだか上手くいってない、ということかもしれません。Cさんの「こんな自分が嫌い」と思う言葉に、悲しみや悔しさの気持ちがこもっているように感じます。

ところで、 Cさんはなぜ「こんな自分が嫌い」と強く思うのでしょうか。その気持ちの裏側には、どんな思いがあるのでしょうか。森田療法では、ものごとを両面から観る「両面観」の視点を大切にしています。森田の述べた言葉に、こんなものがあります。「人が死にたくないのは、生きたいがためである。病気が悩ましいのは、思うように仕事ができないからである。神経質が不眠を恐れるのは、不眠が苦しいのではない。そのために仕事の能率が上がらないのを悩ましく思うがためである。赤面恐怖が苦しいのは、恥ずかしいのが困るのではない。それがために、自分の優越欲を満足させることができないからである。みな生きることの欲望の反面の表れであるのである」

Cさんの「こんな自分が嫌い」という気持ちの裏にもまた、欲望があって、「自分はこうありたい」という思いが強くあるのではないでしょうか。そうしたCさんの気持ちを抑え続けることは、なんだか勿体ない気がしてしまいます。ここで一つ提案したいのは、これまでと違うやり方を試してみる、ということです。長い間、自分の素直な気持ちを抑えてきたCさんですから、素直な感情をいきなり人前で出してみるのはとても勇気がいることですよね。そのため、まずは1人の時間で自分がどうしたいか等、素直な気持ちに目を向けてみることから始めてみるのはいかがでしょうか。例えば、「今日は何が食べたいかな」、「どんな服を着たいかな」といったような感じです。Cさんの素直な気持ちはCさんらしさそのものですから、そのままを大切にしていただきたいと思います。
(金子咲)

Mさんは過去の過ちが気になってしまい、唐突に思い出しては作業が止まり自傷行為をして落ち着くの繰り返しになっているとのことです。一方で、在宅勤務により一人きりになることで観念が増し、本格的に向き合わなければと思われているとのことです。

辛いですね。そして、今はとても大事な機会ですね。本格的に向き合おうとされていることは立派だと思います。

Mさんは今正しさにとてもこだわられているようですが、そこまで正しさにこだわられるようになったのはどうしてなのでしょう。相手に何かしてしまったなと思うとき、または何かしてしまったとき、後味の悪さを感じることがあります。コメントのために以前の書き込みも少し拝見し、Mさんが苦手なのは嫌な気持ちや後味の悪さを感じることなのではないかと感じたのですが、いかがでしょうか。

嫌な気持ちを感じることが嫌で事前に自分に罰を与える、または後で自分に罰を与えることで自分の中で中和しようとする。そういうことはないでしょうか。「私ができることは何もないのはわかっていますがどうしても自分が許せません」と書かれていました。許さないのは誰かですか?自分なのですよね。

次に観念が襲ってきたとき、または自分が実際に取った行動や言ったことで後味の悪いことがあったとき、その感情を自傷行為で紛らわせず、何が嫌なのか自分の気持ちをよく見つめてみてください。何が嫌なのかわかったら『自分は○○のことで△△という気持ちを感じている』ことをきちんと認識してください。または紙に書いてそのまま置き、そのことについてはもう何もしないでください。自分と自分の気持ちを分けるのです。

どんな気持ちを感じているか、それを見ることはそれだけで大作業です。なので、それができたら「よく大変な作業をしたね」と自分に声をかけて、褒めてあげてください。

後味の悪さを感じないようにして消す手段をとると、その気持ちは滞り、繰り返し戻ってきます。でもこのように気持ちを消そうとせずにそこに置いておくと、その気持ちは時間とともに少なくなっていきます。これが「感情の法則」です。

在宅勤務ですと、人も周りにいず、自己管理する時間が増えるので観念も浮かびやすくなってしまうかもしれません。しかしこれは、逆に仕事の関係者と直接会うことが減るなかでいかに仕事の質を維持していくか、いかに自分の仕事と生活のよいバランスを作っていくか、一日の過ごし方、仕事のやり方を工夫する良いチャンスでもあります。

仕事にうまく取りかかり、食事と睡眠をうまく取り、リラックスの時間も持てるようにするためにどのようなスケジュールで、1日を過ごしたらよいか紙に書き出してみてください。仕事をする場所も自宅だと集中しにくいようであれば、図書館など外の施設を利用する、作業過程に人の目が入るようにする、自傷行為をしてしまいがちな時間帯にミーティングを入れる習慣にするなど、強迫観念・行為に入らずに次の行動に移れるようなスケジュール、きっかけの設定を意識してみてください。

強迫症状を良くしていくには、自分の本当の気持ちや恐れに気づき、それをごまかさずに感じられるようになることがとても大切です。そして自分の意志の力だけに頼らず、入り込まずに済む環境をどのように作っていくか、そこに自身の細やかさと緻密さを生かしていってください。そうしていくことでMさんが本当に手に入れたい生活に近づいていくと信じています。
(矢野勝治)

Tさんは8年位前から強迫性障害の加害恐怖に悩んでいらっしゃいます。具体的にはご自身としては、絶対にやりたくないと思っていながら「衝動的に高いところから飛び降りてしまうのではないか」、「衝動的に刃物で自分や大切な人を傷つけるのではないか」といった強迫観念から不安になってしまうというものです。ただ、Tさん自身も98%くらいはそのようなことはやらないと分かっていらっしゃるのですが、完璧主義やこうあるべき、という構えが強いために、不確実性を受け入れられず、それを受け入れるためには寛容さが必要であると考えていらっしゃいます。

誰でも病気や症状で苦しんでいるときは、自分ではない誰か・何かに原因を求めたくなるものですが、Tさんは症状の根本的な部分は、完璧主義や「かくあるべし」の構えの強さ、といったご自分の姿勢が要因であると内省されていて、とても素晴らしいと思います。

Tさん自身がおっしゃっているように、恐れていることが現実になる可能性は0には出来ないものですよね。逆に恐れていないことでも現実になる可能性もありますよね。例えば、4年前の今頃は新型コロナウイルスの影響で世の中がこんなにも変化するなんて誰も想像していなかったですよね。また、私たちは現時点で何歳まで生きるのかということを知ることも出来ません。あと50年生きるかもしれないし、明日死んでしまうかもしれません。それだけ、私たちが生きている・存在しているということ自体が不確実なものなのでしょうね。だからこそ、私たちは絶対的な安心感・確実性を求めたくなるのかもしれません。ですが、100%大丈夫というものを求め、それでなくてはダメだとなると、かなり窮屈な生き方になってしまいますね。

そうであるならば、不確実な私たちが出来ることは、絶対的な安心感を求めていくことではなく、不安を持ちながらも、今、出来ること、やりたいことに手をつけていくことなのだと思います。おっかなびっくりで良いので、Tさんがやりたいことに手をつけていってくださいね。内省できる力のあるTさんであれば、出来るはずです。頑張ってくださいね。応援しています。
(谷井一夫)

Sさんは、手洗い、間違って危険なものを捨てたり落としてていないか、コンセントの確認など、様々な強迫の症状がひどくなっていることについて、書き込まれています。特に、「自分のせいで、他の人に危害を与えるのではないか」という不安が強くて、曝露療法も難しかったとのこと。「やっと念願の2人目が誕生し、願いがかなったのに」と書かれています。大切な存在が増えたのですね。

「人に危害を加えるのではないか」という加害的な不安の場合、「自分のことならともかく他の人に関することをそのままにして万一何かがあったら大変」と考えてしまい、一層「そのままにして先に進む」ことが難しいと感じることもままあります。けれども、そうしたとき、「どうして不安を消したかったのか」を思い出してみましょう。元々は、家族や周りの人を大切にしたい、守りたい、一緒に幸せな生活を送りたい、という思いがあったはず。それが、「可能性をゼロにしなければならない」という「ねばならない」になってしまったとき、確認することが最優先になってしまい、望みとあべこべになってしまいます。そこで、もう一度、本来の望みに立ち戻ってみましょう。まずは、不安を消すのではなく、気になりつつ先に進む(最初は戻ってしまってもよいから一旦その場を離れるとよいでしょう)、たとえば確認の最中であっても、お子さんから呼ばれたら、お子さんに目を向けてあげてください。一旦強迫のあるなしを棚にあげても、2人のお子さんのためにできるだけのことをしてあげてください。どんどん成長する時期のお子さんかなと思いますので、その日のお子さん達の様子、お子さん達と一緒にしたことなどを日記や手帳に書いておくのもよいと思います。子育てそのものの悩みについては、周りの人にも相談したり協力してもらいましょう。

少しずつでも、大切な存在を大切にできる生活をふくらませていってください。
(塩路理恵子)

U様、不安とうつで苦しんでおられますね。ここではうつの状態に応じた森田療法を活かした対応を述べますね。

うつ病の米国DSM5診断基準を照らすと、(1)抑うつ気分(憂鬱な気持ち)、または(2)興味または喜びの喪失のうち少なくとも一つは存在し、(3)体重の変化、(4)ほとんど毎日の不眠か過眠、(5)ほとんど毎日のいらいらまたは行動の抑制がかかる、(6)ほとんど毎日の疲労感、(7)ほとんど毎日の疲労感、(8)集中力の低下、(9)死にたい気持ち、のうち5つが同じ二週間に存在していることが基準になっています。これを満たすようであれば、うつ状態からくる否定的な思考があるのではないかと思います。これを満たすようであればきちんと抗うつ薬を使用し無理をしない方が良いでしょう。回復の過程は個人差がありますが、以上の症状が少しずつ階段を上がるように回復していきます。我々は患者さんに「今どのくらいの回復度合いですか」と訪ね、%で表現してもらうようにしています。症状がでそろっているいわゆる「極期の過ごし方」は、「果報は寝て待て」が大事になります。簡単に言うと家でごろごろしていて良いわけです。30%前後から50%くらい、「回復前期」の時は、「毎日の中での変動が目立つ」のですが「どん底を過ぎれば必ず回復が訪れる」と思っていて下さい。この時期は「疲労感」を主な基準として、疲労感が強い時は休息し、軽い時は手をつけやすいところから手をつけていきましょう。これが「臨機応変」という対応です。また「感じから出発する」のが大事です。何かしたい気持ちがあればそれを少しずつ行動に移して疲れたらまた休んで良い訳です。本来の状態の60~70%くらいまで回復してきたら、生活リズムを規則正しくして生活を整えて行く、「外相を整える」ことが大事になってきます。また、今までの自分の生き方を見直す時期でもあります。「かくあるべし」といった思考にとらわれず現状の中で出来ることをしていくことが大事になります。

このようにうつの状態、%に応じた養生をしていって頂けると幸いです。
(舘野歩)

Bさん。こんにちは。東京慈恵会医科大学附属第三病院精神神経科の半田と申します。

強迫行為かそうではないか。あるいは、強迫観念かそうでないか。考え出すと、わけがわからなくなりますね。

Nさんの書かれているように、そこに明確な区別はありません。同じ行為であっても、状況や人によって判断基準は変わると思います。指差し確認を例にとって考えてみましょう。たとえば、電車の車掌さんが指差し確認をしている時。これは、強迫行為とは言わないですね。乗客の安全を守るために必要な行為です。では、横断歩道を渡ろうとしている人が信号の指差し確認をしていたらどうでしょうか。これは「やりすぎじゃない?」と思う人も多いと思いますが、とっても慎重な人であれば、「いや、必要かもしれない」ぐらいには思うかもしれません。ただこれが、街中の横断歩道ではなくて、車も滅多に通らない山奥の横断歩道だとしたら、どうでしょうか。さすがに、必要だと思う人はほとんどいないでしょうね。…というか、そもそも信号がないかもしれませんね。

ある時は必要な行為だけれど、またある時は強迫行為になってしまう。Bさんが困っておられる「強迫行為」も、時にはBさんを救っていることもあるのだと思います。ですので、「強迫行為」を排除しようと闘うのではなく、ぜひうまく付き合っていく道を探していってもらいたいなと思います。
(半田航平)

Tさんは学校での緊張感、コミュニケーションがうまくいかず大学受験に身が入らないこと、身体の痛み、嫌なことを思い出して資格試験の勉強に集中できないこと、など様々なことに悩んでいらっしゃるのですね。

いろいろなお悩みを拝見して、緊張感をなくすこと、嫌なことを思い出さないようにすること、身体の違和感を無くすことなど、共通して、自分でコントロールできないことをやろうとして上手くいかなくなっているのではないかなと感じました。

できないことをやろうとしていたら、上手くいかないのは当然です。今度困ったことがあったら、これは自分でコントロールできるものなのかを、一度立ち止まって考えてみてください。コントロール出来ないものなのだとしたら、なんとかしようと悩むのを諦めてみてはいかがでしょうか。そうしたら同じ苦しみでも悩まなくなる分、生きやすくなるかもしれません。

また、ご自身でも「時間は有限」「起こってもいないことに不安になって動かないままでは、何もハッキリしないので、とにかく行動するしかない」とおっしゃっていて、その通りだと思いました。実際に人間が自分でコントロールできるのは、行動くらいなのではないかと思います。そして、限られた時間にどのような行動をするかが大切です。勉強のためにまずペンを持つ、など小さなことが大切です。今目の前ですぐにできることを、まずは行動にうつしてみてください。
(市川光)