不安神経症の部屋

Koさんがパニック障害で悩んでいます。「主な症状は,動悸、呼吸困難(窒息感)、めまい、胸の圧迫感等です。この症状は、毎日有り、特に呼吸に症状がでてしまい、息を吸うとゲップが伴い、めまいを感じ、非常に不快感があります。又、物事に集中出来なくなります。とりあえず、薬を飲んで対処してますが、症状は、完全に無くなる事は、有りません。」Koさんにとって不安は流れるもの、変化するものといわれるとびっくりするかもしれません。不安にとらわれている時には誰でもこれが永遠に続くものと考えてしまいがちです。
Liさんが自分の経験を生かして、次のように助言します。その経験とは親戚での会食の時の話です。「家族を乗せて車で30分ほどのところまで行くのですが、夕方の渋滞にまきこまれて、胸がつまってきて、心臓が、むずむずする感じから、痛みに、ここで止まってもどうにもならない、引き返すわけには行かない、頭がへんになりそうなと昔思ったその入り口の辺でうろうろする感じでも、家族でおしゃべりはしている(半分上の空だけどね)この痛みはほんとうに体が悪いのでは、心臓でないにしても、肺がんかもとか思いながら、そして無事到着。
豪華な鍋料理が並んでいるけど、食欲は全くなく、気分を紛らわせるため、鍋に野菜や魚を入れたり、みんなについであげたり、話題を探したり、その間も頭はくらくら、目が回りそう(空腹のせいかも)そして2時間ほど、みんながお腹いっぱいになった頃、すーっと落ち着いてきて、食べられるようになりました。・・・こんなふうで、ちょっとずつ変わっていくのかな?いや変わっていくのだろう!きっと変わる。(わからないけど)」
そうです。不安は変化し、流動していくのです。不安になってはいけない、その不安から逃げたいと思えば思うほど、不安は募るのです。不安とつきあうしかないと覚悟を決めれば、不安が流動し、変化することを体験できるでしょう。

Miさんの最近の悩みは、症状よりも自分の生きかた、性格についてのようです。「誰にでも優しく、いつも冷静に物事を処理できる人間に憧れながら、実際には主人と喧嘩をすると怒鳴ったりして「キレてしまう」コントロールの効かない自分に幻滅するのです。そして怒りの感情をコントロールしようと努力するのですが、中々上手くいきません。」と書いています。
Maさんは、森田先生を例に出しながら、待つことと目の前の作業に取り組むことを薦めています。
Y3さんは「感情は思い通りには変えられない、でも「行動」は変えられます。」とアドバイスします。その通りだと思います。私たちの感情は元来自然なもので、自分でコントロールできないものです。できないことを頭で考え、やりくりしようとすると苦しさは募ります。したがって感情はコントロールできないものと認識が変われば、次にはいろいろな工夫も生まれてくると思います。時には親しい人とは自分の感情をしっかりと伝えて見るのも良いでしょう。その場から離れてみて、自分の感情をしばらく放っておくのも良いでしょう。
もうひとつ大切なことは、怒りは破壊的であるとともに、創造的となるのです。この怒りをどう生かすのか、自分の感情をどう生かすのか、そこにその人の生き方、個性が見えてきます。

Saさんが「・・・でも今後は弱い自分を出しても良いのではと思い始め。それには、言ったほうが良いのか、言わずに自分の心で弱い自分を自覚していれば良いのか悩みます」と書き込んでいます。これは神経質者の、そして悩みを持つ人たちの古くてそして新しい悩みです。自分の不安、恐怖、そして自分が弱点を感じていることをどのようにして人に悟られないようにしようか。私たちはまずそのように考えてしまうのです。しかしそれがまた自分を苦しめていることにも気づいているのです。
Meさんは「Saさん今晩は〜Meです〜!Meはですねー昨年の夏に友達にカミングアウトしちゃいましたよー・・」といつもの彼女らしく明るく助言します。この率直さがしなやかな強さにつながるのだと思います。
liさんは「私はきっと皆さんよりおばさんってこともあり、神経症暦も長いので友人にはどんどん言ってます。でもほとんど理解してもらえない、というかふーんそんなこともあるの?って感じで、言ったこちらががっかりしてしまう。いいことは、同じ悩みを持った人に巡り合えるって事。私もこちらに越してきて4年ほどだけど、更年期友達、神経症友達は増えつつありますね。楽しいよー。・・・」と書き込んでいます。なるほどと感心しました。つまり私たちが悩み、それから抜け出せないときには、自分の悩みが、そして自分の性格が特殊であり、特別であり、重大であると考えがちです。それを人に思い切って率直に伝えてみると、liさんも指摘するように、自分で拍子抜けするぐらいあっさりと受け止められたり、親しみを持ってくれるものです。そこで私たちは自分の悩みが特別でも、重大なことでもないのでは、と考えることが出来るようになるのである。それがまた自分の弱さ(それはすべての人が持っているもの)を認められるその人のしなやかな強さにつながるのだと思います。

このグループの書き込みも活発です。純な心、事実を事実として受け入れることについて多くの人が参加して論議しています。森田先生は、「素直」という事は、私の常にいう「純なる心」とか、「感じ」とかいう事から出発する事で、つまり理屈から割り出した「思想の矛盾」と反対の事です、と述べています(森田正馬全集第5巻、452p)。
純な心や事実唯真、つまり事実を事実として認識し、受け入れることと正反対の心の態度が思想の矛盾(とらわれの元になるもの)です。思想の矛盾とは、理屈から物事を理解し、まず理屈で自分の現実、感情、身体を思うがままにしようとする心の態度です。
つまりMさんがいう「そもそも私達神経質者がなぜ苦しみ始めたかと元をただせば、「嫌なことを好きになりたい」「苦労をしないで楽になりたい」という虫の良いことから起こったことです」が思想の矛盾なのです。そして嫌なものは嫌ながら、つらいことはつらいながら、目の前のことに取り組んでいくことが 純な心だろうと思います。そして自分の欲望の発揮には苦痛がつきもの、と覚悟を決め、物事に取り組んでいくことそのものが、神経質の向上心の発揮であり、生きることそのもののプロセスではないでしょうか。それが森田先生のいう努力即幸福という神経質の本来の生き方だとも思います。

Miさんが「まさか、私がなるなんて!」と題して書き込みをしています。2人目のお子さんの出産後に、パニック発作に襲われ、そしてまた発作が起こったらどうしよう、自分は頭がおかしくなったのでは、早くこの症状を取り除かなくては、と思えば思うほど、状態はひどくなったようです。また心臓が悪いためでは、という心気的な考えにもとりつかれてしまいました。典型的なパニック発作とそこから生じた悪循環です。
しかし幸いなことにこのサイトを見つけて、「自分自身をあるがままに受け入れる、という森田療法の考えに、なんだか心が軽くなった気がしました。」と書いています。海外に住んでいられるようなので、インターネットの持つ威力とこのホームページで救われた人も多いのだなあと実感しました。Kiさんがその書き込みに対して、「私の場合ももまさしくその通りでした。呼吸困難に陥った私も、心臓が悪いんじゃないか、肺が悪いんじゃないかと勝手に思いこみ、精密検査で異常なしといわれるたびにかえって医者に対して不信感を募らせていった記憶があります。・・・毎日苦しさに同居していますが、なんとか一日一日をこなしていけるようにはなってきています。亀の歩みのようではありますが、少しずつ少しずつでも成長できればいいですよね。」と自分の体験を書いています。
Yさんも同じような経験を書き込みます。Miさんは「Maさん、Yさん、ktさん、はじめまして。みなさ ん、私と同じように神経症と共に暮らしているんですね。こういう場所で同じ症状の方たちと交流するのは、とっても勇気づけられます。・・昨日調子が良くても、今日悪いと「やっぱりだめだ。一生治らないんだ。」ニ落ち込んでいました。でも、最近は「今日はこれでいいんだ」と思えるようになったんです。そうしたら、症状もすっごく軽くなってきました。」と自分の現状を伝えます。悩んでいるのが自分だけではない、自分だけが特別ではないと思えることが、神経症の悪循環から脱出する最初のステップです。そのためにもこのフォーラムは役に立つのです。

NEさんが「私は、不安神経症で、悩んでいます。3年前に、初めて強い不安に襲われました。・・・外で不安に襲われて、取り乱してしまったら、どうしょうという不安があります。・・・またそんな不安に襲われるのが、怖くてどうしても、電車や友達の車で出かける勇気がでません。」と書き込んでいます。ご自分でも行動が大切と自覚されているようですが、どうしても予期不安が強くて、電車に乗れません。
SAOさんは「気分が悪くなろうとも”その時は、その時”と思うようにしています。今回も、仕事に行くのが怖くなってしまいましたが「気分が悪くなったらその時に考え様」と思い行ってきました。」と予期不安への心の持ち方を助言しています。つまり出たところ勝負という開き直りが大切なのです。
SAKさんは不安から逃げてしまうと後が大変だ、と助言しています。「私達神経質者は、症状に負けて逃げると、今度行く時に、その何倍もの時間と努力を要します。だから、私はその状況から逃げないで、ぼちぼとでもなんとかやっていければ良いと思います。」大切なことです。MAさんは「1)般若心経の丸暗記、2)宮沢賢治の詩の丸暗記、3)ビートルズの歌詞の丸暗記」に取り組んだそうです。このように不安をそのままに、何かに打ち込んでいくことは大切です。ビートルズの歌詞はなかなか味わい深くてよいものです。さてNEさんは皆さんの助言に従って、思い切って電車に乗ることにチャレンジしました。この素直に、びくびくしながら、チャレンジする心が大切なのです。

今回の不安神経症のグループでは、育児、出産にまつわる不安など女性からの書き込みが多いようです。
例えば、Cさんは3年前にパニック発作に襲われ、外出恐怖ともなりましたが現在は克服できたようです。現在の悩みは「今、悩んでいるのは、不安症状そのものではなく、子供との関係です。引っ込み思案な息子なのですが私自身が、子供とは「外で元気に仲良く遊ぶ」というかくあるべしにあてはめようとし、又そんな風に考えるのは、母として失格で母親というものは、「子供のありのままを認められるおおらかで、優しい人間」という母親像のかくあるべしにとらわれて、がんじがらめになっています」と書き込んでいます。
このように完全な母親にならなくてはならない、完全な育児をしなくてはならない、と自分自身を縛り、苦しんでいる多くの若い母親たちがいます。
全てを完全にと思うと行き詰まります。私たちのできることは限られているのです。そして自らに完全さを求めると、さらに子供に対しても「完全さ」を求めてしまいます。そうなると子供の欠点しか見えないでしょう、自分の欠けている部分しか見えないように。
子供を育てる上で、自分の出来ることをして後は仕方がないこと、と心に定めれば、むしろ子供をそのままに認めることが容易になります。結局子供は自分の思い通りに ならない別個の人格を持った人間です。

Oさんが「逃げずに行動するのが、精一杯・・・」と書き込んでいます。Sさんも「頑張っても何度耐えても、成長していなくって・・・戦わなくても、何をしなくても、発作に見舞われ、どうしてなのか苦悶しています」と書き込みます。たしかに不安が不安を呼ぶ状態はとてもつらいものです。
このようなときには初心に戻る必要があります。私たちの不安への、そして生きることへの認識を変える必要があるのです。不安を取ろう、これをなんとかしたいというのが人情です。ところが厄介なことに不安はそうしようとすればするほど、不安を取り除く行動をすればするほど、不安はいつまでも追っかけてきます。不安になっている事実を、仕方ないものとあきらめ、受け入れることが認識を変えることです。そしてそれとともに不安をとることでなく、目の前のできることに取り組んで以降とする発想の転換が必要です。それが不安からの開放、正確に言えば、神経症的不安(不安へのとらわれ)からの開放を約束するのです。
そのためには不安を持ちながら、持ちこたえ、そのなかで不安を取ることをあきらめる(不安は常にあるものと覚悟を決める)ことが次の変化を引き起こすのです。時間はかかりますが、それが最も着実な変化なのです。

このグループでの書き込みも活発です。ここに書き込んでいる皆さんは不安を 持ちながら、生活での目的をたすために苦手な場面への恐怖突入を試みています。うまくいく場合もありますし、そうでないこともあります。しかしこのような試みがやがて自分の不安への関わりあい方を知り、不安への対処法を知り、そして自分の生き方を見つけていく大きな一歩なのです。
さてkさんは「一人で頑張り続けるのは厳しいものがあります。今日、生活の発見会に資料を請求しました。出来れば入会しようと思います。」と書き込んでいます。Mさん、Cさんもその決心をサポートします。しかし初めての人にはもちろん生活の発見会とはどんなところだろう、集談会とはなんだろうと不安にもなり、また参加している人たちがみんな元気で自分がだめな人間だ、とも考えてしまいがちです。
Kさんもそのような不安を持っていましたが、思い切って踏み出してみて、初めて集談会に出席した感想を書いています。「初めて、集談会に出席しました。細かい事は言えませんが私も含めて4人だけだったので却って緊張も少なく話せて良かったです。直接、自分の状態について聞いてもらえた事で気持ちも大分軽くなりました。これからも、出席していきたいと思っています。機会があれば、いろんな会に出席していろんな人の話も聞いてみたいです。」。
このような最初の出席の経験は恐怖突入といえるものですが、これが大切です。そして自らの不安を語り、経験者からのアドバイスを受けながら、自分なりの不安の対処方法を考える、さらに自分の生き方について考えることは大切なことです。森田療法ではこのような自助的な努力をとても大切にします。自らを助けるものこそが、不安をしっかりと対処できるからです。生活の発見会活動はそのように意味でも重要なのです。

最近は神経症の薬物療法が注目を浴びています。そのために自分には何らかの脳の機能的な障害があり、そのためにこの不安が起こるのだ、とまた不安に駆られる多くにパニック障害の人たちがいます。Aさんもその点が心配なようです。ある本に『パニック発作はふつうの心理的な不安と異なって、何らかの身体的基盤を持つものと考えられる 』とあり、その著者が前慈恵医大教授ということです。実はこの問題は単純なものではありません。もちろんさまざまな感情に身体的プロセスがあるように、不安を感じるには身体的基盤があります。問題は、ある身体的サインを敏感に感じ、それが自分の適応に悪い影響を与える、またはなにか破局的な恐ろしいことが起こる前兆だと考えることです。そうなると、単なるめまい、頭痛、一過性の不安などに強く注意がひきつけられ、そして悪循環が始まります。つまり自分で自分の不安を自分の考えと注意の方向性で強めてしまうのです。この悪循環をきることが森田療法の最も重視するところです。
またAさんは次のような質問をしています。『神経質講議』の中に、「女の道」という言葉が出てきますが、「女の道」とは、女性の更年期障害や月経に関する様々な身体の変調の事を指しているのでしょうか。でも、更年期障害や月経に伴う身体変調はホルモンが関係していると思うのですが、「気のせい」なのでしょうか。
女性のさまざまな身体的変調を血の道とは指すのでしょうが、これも単にホルモンのバランスだけが関係しているとは思えません。その体調の悪さにこれを何とかしなくてはとらわれ、自分で自分の症状を強めている可能性もあるのです。そのことを知る必要はあるでしょう。

私たちが生きていくと、さまざまな出来事に襲われます。それは時には仕方がないことであったり、偶然であったり、自分でたぐり寄せたりするものです。そのような出来事とどのように関わるのかによって、その人の人生と事態は変わってくるのです。それは小説に書かれているような人間のドラマを思わせます。2月の不安神経症のグループでの書き込みは、人生のドラマを私に感じさせました。
Aさんが、「このままずっとこんな状態が続くのかと思うと、自分で耐えられなくなってきて、自分で自分をふいに何かしちゃったらどうしよう、などという考えが急に浮かんで恐しくなりました」と書き込みます。Bさんは、「ピンチはチャンス」と発想の逆転、不安から逃げないこころの大切さを書き込みます。その時に思わぬことが起こったのです。Cさんのお父さんの病気が急変し、なくなられたのです。故人の冥福をこころから祈ります。
不安神経症で悩む方にとっては、これこそ絶対のピンチです。尊敬する父を亡くしたショック、そして近親者としてのお通夜やお葬式の準備とそれらを取り仕切りながら行うことなど。しかしそれを避けることはできません。それをきいたメンバーのお悔やみの言葉は、心温まるCさんに対する配慮に満ちたものでした。このような本当の意味での他者配慮的な言葉は私たちの心を打ちますし、いわゆる神経症のとらわれたこころとは対極的なものでしょう。私もBさん同様胸が熱くなりました。このようなつらい体験をしたときには、Bさんが森田の言葉を引用していましたように「悲しみを悲しみとして感じていく」ということにつきると思います。そして故人を偲び、そのこころのままに目の前のしなくてはならないことに手をつけていくことが大切なのでしょう。しっかりとCさんはそのようなこころの態度を持ってこのつらい状況を乗り切ったようです。そしてこれがこのようなつらい喪失の体験を生かし、人が成長していく道でもあります。

Aさんが、パニック障害で悩んでいます。Aさんは森田療法を学び、家庭も育児も自分として一生懸命やってきました。しかし森田療法を勉強すればするほど、逆に自分を縛ってしまうようです。つまりいつも不安を持ちながら「しっかりと行動しなくては」と自分で奮い立たせているのですが、うまくいきません。Bさんも同じような悩み、疑問を持っているようです。この事実はとても大切なのです。AさんもBさんも、まじめで完全主義的な方だと思います。すこし森田療法では「こうすべきだ」と肩に力が入っています。完全な行動をすべきだ、不安から逃げてはいけない、そうしないと不安を克服できないと決め付けていないでしょうか。
不安はしばらくの間はいろいろな場面でついてくるもの、と心に定め、まずこれを完全に取り除こうとはしない心の態度が大切でしょう。そこから不安を抱え込む力が付いてくるのです。そしてできることをぼちぼちと、ゆっくりとという感じで生活してみたらどうでしょうか。時には不安に漂い、そのような自分を客観的に観察し、日記などに書いてみることも良いでしょう。そこからなにかヒントをつかむかもしれません、そして自分なりの工夫から自分に合った森田療法を見つけることができるようになると思います。