不安神経症の部屋

Pさん、こんにちは。お悩みを拝読しました。まず文章を拝見して思いましたのは、非常に自己自身の悩みの状況を客観的にしっかりとまとめることが出来ているということです。このことは、問題を解決していくうえで、非常に重要です。そもそも自分が何にどう悩んでいるかが、はっきりとせずに迷い続けるということはよくあることです。

それでは、少し一緒に考えていきましょう。
貴方は「看護師になりたいというのは、前の会社から逃げるための口実だったような気がしております」と書かれています。早期退職の募集、上司との関係の悩み、リストラにあうのではないかという不安。いずれも難しい問題ばかりです。何も貴方のみならず、同じ状況におかれれば、誰もが大いに迷い、悩む状況だと思います。

ここで大事なのは、冷静に落ち着いて現実的に検討していくことです。不安に惑わされてはいけません。貴方はご自身が書かれているように、悲観的な思考を抱きがちとのことですね。物事を決断していくにおいては、もしもの不安、万が一の不安にとらわれすぎると、何も決められなくなってしまいます。そして往々にして損をする選択をしがちです。貴方の「不安が強い」ということは、それだけ貴方が「上手くやっていきたい」という希望が強いと言えましょう。

では、どうしたら良いのでしょうか?
まず第1に「自分はどうしていきたいのか?」という自己自身への問いかけが必要不可欠です(生の欲望)。往々にして、不安に圧倒されている人は「自分がどうしていきたいのか?」という希望を見失いがちです。これはとても危険です。不安はあっても良いのです。不安は必ずあるものです。不安がある中で「貴方はどうしていきたいのか?」が重要になってくるのです。退職を決断したあとではありますが、もういちど、「貴方はどうしていきたいのか」を冷静に冷静に、そして真剣に考えてみましょう。そして「看護師になりたい」と思ったのはどのような理由でしょうか? 資格を持っていたほうが安心だから、病める人々の力になりたいと思ったから、などなど、いかがでしょうか。

どのような理由でも構いません。もし、いくら考えても「看護師になりたい」理由がないのであれば、この進路の選択肢を実行していくのはなかなか難しいものと言えるかもしれません。どのような志望動機でも良いのです。大事なことは、看護師になりたいと思う強い意志があるかどうかです。看護師の学校は想像以上に大変なものです。やはり人間の生命にかかわる仕事ですから、その過程は厳しいものです。そうした厳しさを覚悟できますか。少し厳しい言い方かもしれませんが、そのくらいの覚悟が必要と言えましょう。

こうした今後の人生を生きていくうえでの自己自身への問いかけと同時に、もう1つ、心の整理が必要になってくると思われます。それは「会社を退職した」という事実をしっかりと「自己自身が決断した結果である」ということを受けとめることです(事実唯真)。どのような理由があろうとも、誰でもない貴方自身が退職を決断した事実は変えようがありません。周囲の人々は、貴方にこれこれの事情があったから会社を退職したのだろうと暖かく見守ってくれる人ばかりではありません。そうした厳しい現実があるからこそ、自己自身の決断の事実をしっかりと受け入れる必要があります。

また、こうした決断に関して言えるのは、不安の強い人ほど、決断を早急にして、自分の可能性を狭めてしまう場合があります。何をするにしても、不安はつきものです。不安がないことなどあり得ません。不安のない状況で人生を歩んでいきたいという希望は叶いようがあり得ません。「しっかりと生きていきたいという強い希望」があるからこその「もしも上手くいかなかったらどうしよう」という不安は、「不安のままに、不安のままに」前進していくことにつきるのです。いかがでしょうか。

過去の事実は変えようがありませんが、これからをどう生きるかによって、過去の意味が変わってきます。人間はなかなか変化できない生き物です。しかし、同じ後悔はしたくないものです。今回の会社の退職から得た教訓をいかに今後に生かしていくかが大事になってきますね。何か少しでも良いから、今後に生かせれば良いのです。さあ、嘆いていても始まりません。嘆きつつで良いですから、現実的な行動をしていきましょう。貴方自身が「看護師になりたい」のであれば、どのように苦しくても努力を重ねていくことです。そして、別の道を選択するのであれば、その別の道をしっかりと「不安のままに、不安のままに」前進していくことです。どちらの道も苦しいことに変わりはありません。しかし、我々は生きていかなければなりません。さあ貴方はどうしていきたいですか?
(川上正憲)

Kさんは(身体への不安や恐怖が受け入れる事が出来ない)と困っています。元来のちくのう症に加え、数年前に大腸に疾患が見つかり、この先ガンになりやすいと言われたことから、またどこかに悪いところがあったら…と気になるようです。
誰しもガンになりやすいと言われれば不安になるものですし、神経質な方ならばなおさらだと思います。加えてちくのう症がなかなか治らないことも気になってくるものです。

しかし御自身で「思い込みが強いようで神経の罠にはまっているようです。」と冷静に振り返れている様子で、また(気になりながらも)仕事もされている様です。「不安や恐怖をうまく受け入れることなど出来ない」とのことですが、うまく受け入れようとしないことがよいかもしれません、なぜなら当然気になることですから。気になること(ガンへの不安)を取り去ることは出来ませんので、そこで森田療法の症状との付き合い方が生きてきます。

森田療法を患者さんとどのように進めていくかお伝えしますと、

1)悪循環を共有したうえで気になることを棚上げし、目の前の仕事や出来るけれども症状のためにやらないでいたことに手を出していくことを勧めます。
2)後日の診察で、その経験を一緒に振り返り、出来たことに目を向けていきます(患者さんは症状が気になっていると取り組めてもなかなか評価があがりません。出来たことを評価できると次に取り組む時のエネルギーになります)。
3)気になりながらも取り組むことを繰り返しやっていくことで、気分が流れていくことや生活が広がっていくことを体験し、症状にとらわれない態度が身についていきます。

Kさんも少しずつでも体験を深めていって下さいね。
(矢野勝治)

HKさんへ。 2か月前からALS(筋委縮性側索硬化症)という病気なのではないかという不安にとらわれ、二つの神経内科も含め様々な診療科を受診されたのですね。ALSではないとの診断を受けても病気に対する不安がぬぐえず、現在は少量の抗不安薬(リーゼ)を効果が切れないうちにと頻繁に服用しており、そのような精神状態にもまた不安が生じているということでしね。

HKさんのように身体に何らかの違和感が生じたとき、身近な方の病気を思い出して、自分もその病気にかかっているのではないかという恐れを抱くことはごく自然な心の動きです。私たちが健康でありたいという自然な欲望を持つ限り、誰もが一時的に体験するような恐れに他ならないからです。けれどもHKさんは、そのような恐れはすぐにも解消しなければならないという心の構えが強いため、度々医療機関を訪れたのでしょう。そこで医師から問題ないと言われても「見落としがあるのではないか」といった「万が一の不安」が起こり、それを打ち消すためにまた別の医師のもとに受診するということを繰り返してこられたのではないですか? このように自然な恐れ、不安を排除しようとすればするほど、かえって不安はつのっていくため、抗不安薬を頻繁に服用される結果になったのですね。不安が強い時に抗不安薬を味方につけること自体は問題がありません。けれども不安を感ずるたびに服薬する、あるいは効果が切れないうちに早め早めに服用するというやり方では服用回数が増えてしまいますし、そのような状態がさらに不安を招くことにもなってしまいます。このまま飲み続けるのも不安だけれど、やめるのもまた不安だというジレンマに陥ってしまうのです。
ひとつの対処策は、いきなり薬をやめるのではなく、今飲んでいる薬よりも長時間作用するタイプの抗不安薬(メイラックス、レスタスなど1日1回の服用で効果が持続する薬)にいったん置き換えてもらい、落ち着いてきたら半量にしたり、1日おきの服用にするというようにして徐々に減らしていくことです。思い切ってかかりつけの先生に相談してみてはいかがでしょうか。

それと共に、上記のように不安をすぐに打ち消そうとする心の構えがさらなる不安を呼び込むという事態にHKさんが気づくことが大切です。そして不安を抱えながら日々の生活を整え、苦しくても健康人のふりをして生活を送っていくことが、一番の薬になるのです。「病気を恐れて病人のような生活に陥っていないかどうか」、もう一度ご自分を振り返ってみてください。
(中村敬)

Kさん、こんにちは。Kさんは、2ヶ月前に心電図でひっかかったことを切掛けに、「体のどこかに重大な病が潜んでいるのではないか」という不安に陥っているようですね。これは、とても辛い状態だと思います。そのことを何とか解決しようと、Kさんは、インターネットの情報などで「大丈夫!」というお墨付きを貰いたくて必死だったと思います。しかし、その努力の甲斐は虚しく、お墨付きを得られないばかりか、余計にKさんを不安にさせてしまったのではないでしょうか。もしかしたら医療従事者であり、ある程度の知識をお持ちであることも、Kさんに重大な病を想起させ、不安を作り出していたかもしれません。

ところで、KさんやYさんのやり取りを読ませていただいて、1つ気がついたことがあります。それは、今までKさんがインターネットの検索をあたかも安心を得るための確認手段として使っているということでした。このことは、鍵が掛かっていないか心配で何度も自宅に引き返してしまう不完全恐怖の心理と非常に似ていると思います。つまり、Kさんは、「検索すればするほど不安になる」という悪循環に陥っていたのです。そんな中、この体験フォーラム通じたYさんとのやり取りは、本当の意味でKさんを安心させたのではないでしょうか。Yさんの存在は、Kさんを「悩んでいるのは自分だけではない」という思いにさせ、不安に立ち向かう勇気を与えてくれたように思います。この勇気は、悩める者同士がその苦労を分かち合い、励ましあうことで初めて得られるものです。

すなわち、Kさんはインターネットを、安心を得るための「はからいの手段」から、相互交流を求めた「コミュニケーションの手段」へと転換を図ったのです。ですから、このようなやり取りを深めるような使い方を心がけて、日々の生活に立ち向かっていただければと思います。色々な仲間が、不安の中でも生活を豊かにする生きた知恵を教えてくれたりすることでしょう。さらにKさんが苦労して培った経験を、他の悩める仲間達に是非伝授して言ってください。このフォーラムを最大限に利用され、少しずつ建設的な生活を取り戻されることを願っています。がんばってください。
(樋之口潤一郎)

Bさんは、パニック障害・不安障害で薬を飲む生活が5年ほど続いたそうです。しかし、身体のために良くないと感じ、医師と相談しながら減薬し、2か月ほどで何とかやめられたものの、薬の離脱がとても苦しく、仕事も日常のことも出来なくなってしまったとのことでした。ひきこもった後、今はボランティア生活を続けていらっしゃるそうですが、予期不安に襲われ苦しい日々とのこと。その中でも、薬は飲まず通院もしていないと書かれています。
確かに薬は異物が身体に入る感覚があるでしょうし、長い間飲み続けることに不安を感じるのは当然だろうと思います。Bさんの書き込みには、服薬している間の状況は書かれていないので、詳しいことはわかりませんが、減薬に医師も反対しなかったことを考えれば、それなりに日常生活はおくれていたのではないかと推察します。ただ、5年間飲み続けた薬を2か月でやめるというのはやや早いようにも思いますし、Bさんの「薬をやめたい」という希望も強かったのかもしれません。実際、その後の離脱がとても苦しかったという記載をみると、多少焦って薬をやめようとしたのではないでしょうか。

薬を飲んでいる患者さんの多くはこうした薬への複雑な気持ち(助けになるという気持ちと、ずっと薬から離れられなくなるのではないかという不安)を抱きやすいものです。そして、「薬は飲むべきではない」という構えが強いと、薬を飲んでいるか否かにとらわれていってしまうのです。しかし、不安と付き合いつつ必要な行動に踏み込もうとする際に、薬は補助輪的な役割も果たします。薬を味方に付けながら、不安と付き合う姿勢を身に付けていけば、いずれ薬は自然に不要となっていきます。薬は身体に良くない、として薬をやめることに必死になってしまい、結果的に日常生活が崩れてしまっては勿体ないことですよね。まさに、努力する方向、頑張る相手がずれてしまうわけです。薬をやめた結果、出来ないことが増えてしまえば、「結局、薬が無ければ何も出来ない」と考えて、これまで以上に自信を失ってしまったり、行動する際に身構えてしまうこともあるでしょう。こうした事態を避けるためにも、薬を飲んでいるかどうかではなく、薬の助けを借りつつでも、そこでどんな行動が出来たのか、その中で不安などの感情はどのように変化したのか、に目を向けてみましょう。折角の行動も「薬のおかげ」にしてしまったら、そこから得るものは少なくなってしまいます。

Bさんの場合も、薬を飲みながらの5年間で様々な体験をしたことと思います。それは決して薬がそうさせたのではなく、Bさん自身の力で得たものなのです。今は、薬を飲まないままボランティア活動を1年4か月も続けているとのことですから、「出来ないことだらけ」と一括せず、どんなことが出来て、どんなことは出来ないのか、何が不安なのかなど、今一度生活を振り返ってみたらいかがでしょうか。場合によっては、一人で頑張ろうとせずに、医療機関に相談し、薬に対する不安や抵抗感なども含めて率直に医師と話し合うことも、逆に近道のように思います。
(久保田幹子)

Gさんは、「内定を頂いた会社に入社しても不安がつきまとい、恐怖心から一週間で退職。後悔と自己嫌悪でうなされ、毎日が地獄のように不安」と書き込まれています。
大変な思いをして就職活動をしてようやく入社した会社を、一週間でやめなければならなかったとのこと、とても苦しい事態ですね。不安で、先が見えないような気持でおられるのですね。
「辞めたことが正解だったのかわからない。続けていても体調は更に悪くなっていただけ?未来のことは誰にもわからないし過去の事と自分でわかってはいても受け止められないのです。」とも書いておられます。
他の選択肢を取っていたらどうなっていたか、ご自身を含め誰にもわからないことですよね。わからないからこそ悶々としてしまう訳ですが。

ここで、わかっていることは、「その時の自分」がギリギリのところで何とか決断したということ。
そして、今の状況をとてもつらく、受け入れがたく感じている、というのが今の自分の「心の事実」として受け止めてみましょう。

ですから、今は不安を感じるのが自然なことだし、後悔したり、くよくよしたり、泣いたりしてもよいのです。今の状況で普段と同じような気持ちでいよう、平気でいようとするのは、無理な注文ですよね。
不安が襲ってくるたびにお酒に逃げてしまうとのこと、とても苦しい状況ですね。
ただ、お酒で不安が和らぐのは一時的なもの、そのあとの落ち込みを強めてしまったり、睡眠の質を悪化させてしまうこともあります。

そしてもしも不安に圧倒されてしまって生活が崩れてしまっていたら、まず生活の形を整えていくことから手を付けてみましょう。それも、顔を洗う、歯を磨くなど、小さな動きからでいいのです。そうすると、その動きにつられて次の行動が広がることもありますよ。不安のままに、恐る恐る一歩を踏み出していけるといいですね。
今後の就職活動については、一人で抱え込まず、できるだけ色々な人にも相談し、サポートしてもらいながら進めていけるといいですね。

ところで、表題は、森田療法とは関係ありませんが、古の西洋の詩人、リルケが若い詩人を目指す青年に向けて書いた一文から引いてみました。「心にわからないことがあるときは、その問い自体を愛するようにつとめることです。鍵のかかった部屋のように、遠い外国の言葉で書かれた書物のように」という一節があります(うろ覚えで、不正確な引用になってしまっていますが)。
不安やわからないことを「抱えること」の大切さ、古今東西を問わず、変わらないのですね。「抱える」ためのイメージの助けになれば、と思い載せました。
(塩路理恵子)

Tさんは、学校行事でお子さんのために親同士の会合へ出席しないといけないのですね。そこで緊張をされているのですね。「会合で周りの方とどんな話題を出して話せば良いのだろう」や「周りの輪を自分が乱さないだろうか」といった思いが頭をめぐっているのでしょうか?

Tさんは、おそらく対人恐怖の症状に近いのかとお察しします。めまいも出現していますが、親同士の会合へ行く時のみに出現しているのであれば、不安神経症(パニック障害)と考えず、めまいも対人恐怖症の一部と考えても良いと思います。現状を打開したくて「人に慣れるために」ジムへ行かれたりしているのですね。しかし人に「慣れる」か「慣れない」かを基準にジムへ行くと、そのことばかりに「とらわれ」逆に「こんなに通ってもまだ人に慣れない」と落ち込んでしまうことはないでしょうか?

森田先生は対人恐怖の患者に対して、「症状測定器」にならぬように説いていました。大事なのは「周りになじむか否か」ではなく、「周りになじめないかなあ」と不安を抱えつつ、その場で必要なことをおっしゃるとか、他の人との交流をしていくことが大事ではないでしょうか。
あとは、親同士全員と仲良くしようとするのは大変かと思います。それは子どもが同じ学校なだけで親同士の背景は色々な方がいらして共通の話題を一から探すのは至難の技と思うからです。ですから、お子さん同士仲良くしている親からコミュニケーションを取っていくのはいかがでしょうか?日ごろお子様からお聞きしているお友達や遊びについて話すのは比較的入りやすいのではないかと思います。しかし子供同士の接点がない親と隣になって話さざるを得ない時は、最初は天候の話しから始め、最近の学校行事のことを話題に出されていくのも良いのではないでしょうか。
またせっかくジムへ行かれるのであれば、「人に慣れる」ためでなく、ジムで一緒にいる人とその場を「楽しむ」ことを重視して通うようにしていってはいかがでしょうか。
(舘野歩)

Pさんは高校の授業で音読した時に、緊張と震えで息がうまく吸えず、最後まで読めずに逃げ出してしまうという事がありました。それ以来、人前で何かをする事に、恐怖感を抱くようになって困っていらっしゃいます。
森田療法の不安のとらえ方の基本に両面観というものがあります。『不安や恐怖の裏側には「より良く生きたい」という向上発展の欲求がある』というものです(これを森田は生の欲望と死の恐怖といっています)。例えて言うのならば、「テストで良い点とりたい」という欲求があれば、「悪い点だったらどうしよう」と不安になり、「みんなに好かれたい」という欲求があれば「みんなに嫌われたらどうしよう」と不安になるものです。「テストで0点でもいいや」「みんなに嫌われてもいいや」と心の底から思えるのであれば、不安は消えるのかもしれません。しかし、欲求がある以上はこれらの不安は消える事はありません。「不安になる」のは決して心地よいものではありません。それゆえに、私たちはなんとか不安をなくそうとしてしまうものです。しかし、完全になくなるものではないのであれば、不安も欲求も心の事実として受け入れるのが自然で、この態度の事を「あるがまま」と呼んでいます。

さてPさんは高校の授業で音読していた時、どこに注意が向いていたでしょうか。緊張している自分に注意が向き、「なんとか緊張しないように」と考えていなかったでしょうか。もし、このように注意が向いていたのであれば、まさに不安をなくす事に力を注いでいた事になります。直接的に不安をなくそうとすると不安が軽減しないばかりか、ますます大きくなってしまいます。

人前で発表したり、かしこまった会議に参加したりする際に緊張することはとても自然なことです。むしろ全く緊張せずに横柄に振舞っている方が問題です。緊張しながらで全く構いません。「自分が緊張しているか」ではなく、「会議の内容」に注意を向けましょう。また、発言・発表する際にも「自分が緊張しているか」ではなく、「周りの人が理解してくれいるのか」に注意を向け、出来るだけ分かりやすく説明するようにしましょう。
「なんとか克服したい」と強く願うPさんならば「緊張しながら場に留まって、目的に注意を向ける」事は出来るはずです。是非とも頑張ってくださいね。
(谷井一夫)

Uさんは、約1年前から、悪夢、不眠(死の恐怖)、不安感などで悩まされているようですね。更年期障害(身体的な問題)、仕事のストレス(心理的な問題)などが背景の1つにあるようです。何事も一挙に解決を図っていくことは難しいと思います。まずは更年期障害については婦人科、心療内科での相談、そして悪夢、不眠、不安感は心療内科、精神科での相談(薬物療法、カウンセリング)をしてみてはいかがでしょうか。状況が切羽詰まってからではなく、早目に解決できるものは解決した方が良いように思います。

Kさん、文章全体からとても前向き(主体的)な様子が伝わってきます。大変、頼もしいですね。これまでの詳しい経過はわかりませんが、今、現在も決して不安や悩みが全くないわけではないのだと思います。様々な困難が相応にあるのでしょうが、それを否定的に困難と受けとめずに、あるがままに事実として受けとめ(受容:事実唯真)、その事実の中で逃げずに取り組んでいらっしゃるように思います。森田先生は「仕方のないことはあきらめる」とおっしゃっています。この“あきらめる”は「事実を事実としてしっかりと受けとめる」肯定的な意味を思っています。この“あきらめる(否定)”が肯定の意味をなすというパラドックスに深い意味があります。そもそも人間の存在は矛盾に満ちた存在です。この矛盾を幾重にも止揚(乗り越える)ことによって人間的成長がもたらされます。ますますの活躍をお祈り申し上げます。

Cさんは、自己自身を洞察されて「親の期待に応えなければならない」という“とらわれ”を見つけだされたようですね。「自己自身を知る」ということは、とても大変な作業で、時に心の痛みを伴うものだと思います。この洞察1つをとっても、これはCさんの素晴らしい成長を意味しますし、母親への依存状態からの脱出の第一歩です。
さて「親の期待に応えなければならない」という“かくあるべし”の思考(観念)によって、蔑(ないがしろ)にされてしまっていたもの(気持ち)は何でしょうか?考えてみたことはありますか?
それは、おそらくCさんの本当の心の声(気持ち)ではないでしょうか。Cさんの心には「自分は本当はこうしたい、ああしたい」という様々な希望があるのではないでしょうか。こうした心の声(気持ち、希望)を森田療法では「生の欲望」と言います。唯一無二の自己自身の人生を歩んでいくということは、この「生の欲望」にしたがっていくことなのです。しかし、それはそんなに簡単なことではないかもしれません。それは、もしCさんが自分の心の声(生の欲望)にしたがって行動しようとすると「親は自分の行動をどのように思うのだろうか。親は自分の行動を聞いたら落ち込むのではないだろうか」と不安感が生じるかもしれません。自己自身の「生の欲望」の発揮と同時に「親との関係が変化する」というこの局面をどのように乗り越えていくかが、親から自立した人生の第一歩となることでしょう。何か新しいものを獲得すると同時に、これまでの何かを失うかもしれないという不安、この葛藤を止揚(乗り越える)ことが成長の第一歩となりましょう。この葛藤を乗り越える力はCさん自身に必ずあります。粘り強く、取り組んでいきましょう。
(川上正憲)

Rさんは森田療法で症状が軽減したものの、残っている症状をどうすればよいのか気にされています。薬を処方されましたが、内服には抵抗がある様です。
当院の外来には(森田療法は薬に頼らない治療法と聞いたので)と薬を使わない治療を希望されて多くの患者さんがいらっしゃいます。もちろん必要のない方に薬は用いません。しかし使った方がよい状態であるにもかかわらず、飲みたくないと言われる方もいらっしゃいます。そのような方には(薬は症状がなくなることを目標に内服するのではなく生活を広げていくことを目標に、必要であれば薬を用いていくこと)を勧めます。そのうえで、(森田先生の時代には現在使われているような薬がありませんでした。森田療法は薬を用いない治療と言うよりは、薬にとらわれない治療法であると言えます。とらわれずに生活出来るようになった結果として薬が減ったりなくても大丈夫になる方はいらっしゃいます)と伝えます。

薬を内服することで症状が軽減し(症状へのとらわれが減り)目の前の生活が広がるのであれば、また副作用の症状などがなければ内服してもよいと思います。また薬を飲みたがらない患者さんは薬を減らしたがる傾向がありますが、よくなった分だけ薬を減らすことに意識を向けるのではなく、生活を広げることに目を向けることを勧めています。薬を通して症状を意識する方が多いので、そこで症状に目を向けてとらわれないことです。
Rさんは身体の症状があるとのことですが動けている様子です。症状があるかないか、薬を飲むか否かを気にするのでなく、行動が出来ていることを評価して生活を広げることに努めて下さい。
(矢野勝治)

こんにちは、Tさん。予期不安から来る筋肉の強張り、自分を抹殺したくなるほどの強い感情など、常日頃悩まされている様子が文面から伝わってきます。またTさんの生い立ちを読ませていただいて、ご両親のアルコールの問題や離婚などで、常に「自分が両親に代わって頑張らなければ」という思いで、戦ってきたのだと感じました。まさに孤軍奮闘であったと思います。ご結婚、出産を経て以降も、きっとTさんは「自分が我先に頑張らなくてどうする」という思いで、走ってきたように見受けられました。その労力は相当なものであったでしょう。だからこそTさんは、今までの孤軍奮闘の生き方に行き詰って、その先々が見えないために様々な不安に駆りたてられていったのだと思います。

けれども私は、この行き詰まりがTさんを変化させる上で、大きな意味を持つのではないかと考えます。何故なら、孤軍奮闘だけに頼らない新しい生き方を見つけるチャンスになると思うからです。もしそうだとしたら、まずTさんは、今まで一人で頑張って解決しようと試みた生き方を見直す勇気が必要です。つまり、自分だけで解決困難な事態であるという事実を認め、新しい方法を模索していくことなのです。その一つが様々な人や物に助けてもらうことです。現在は、どちらかの治療機関にはおかかりですか? お薬に助けてもらうことも、心の余裕を回復する上で重要です。特に周囲に対し強い疑心暗鬼に陥っている場合であれば、一時的にお薬が大きな味方になってくれるものです。

次に外顔の良さだけで様々な場面を乗り切ろうとせず、「本当は何に困っているのか」を人に話すことが大切です。「人に助けられて、私達は初めて自分の悩みが何であるかを知る」とある方が仰っていました。恐らく人にきちんと助けてもらう働きかけが出来るようになることが、Tさんの本当の自立であるとも思います。旦那様に話すもよし、カウンセラーの方に話すもよし、幾つかの方法を是非試して欲しいと思います。苦しい渦中とは思いますがTさんが、少しでも回復されることを心より願っています。
(樋之口潤一郎)

Rさんは、「ちょっとした事が原因で音に敏感になり、耳に残ったフレーズが離れないとか、自分がとらわれたらどうしようと思う音のことを考えて不安になり、打ち消しをしたりと気持ち悪い症状が出ています」と書き込んでおられます。何かをしているときに、ふと物音が耳触りに感じることがありますね。例えばふと時計の針の音が耳についたとき、仕方なくそのままに気にしながら仕事をしていると、いつしか注意が流れ変化するもの。けれど、音を聞かないように、気にしないようにという「思想の矛盾」が起こってとらわれてしまっているのですね。

こんなとき、森田先生は「とらわれになりきる」というアドバイスをされています。
たとえば、森田先生は、講演をしながら、物がたくさん置いてある机にとらわれながら、話の内容にもとらわれている、という風に注意のリズムにしたがってさまざまなものにとらわれていくのだ、といいます。それは何事にもとらわれる心であって、同時に何事にもとらわれない心なのだというのです。とらわれる心の裏には、仕事に勉強に集中したい、快適に生活をしたいという生の欲望があるはず。苦しいですが、音にとらわれながら、目の前の行動にとらわれ、人との話にとらわれていきましょう。
(塩路理恵子)